25:元推しは、ここにいる
ルカが柚希の前に姿を現してから、もうすぐ一年になろうとしていた。
彼は驚くほど真面目に現代の生活へと溶け込みながら、同時に、異世界への帰還方法を模索し続けている。スーパーのタイムセールで鶏胸肉を選び取る手つきと、パソコンの前で怪しげなオカルト記事をマウスでスクロールする手つきには、どちらにも等しく生活の匂いが染みついていた。
「召喚されたのなら、帰る手段だってあるはずだ」
ルカはそう言って、硬質な微笑を浮かべる。その頑なさは、いつ崩れてもおかしくない祈りに似ていた。
何かの間違いでこの世界に投げ出されたのだから、正しい手順を踏めば、正しく元の場所へ戻れるはずだ。そんな、あまりにも無邪気な世界への信頼。
「そうだよね。なんかさ、この前始まったアニメで興味深い設定があって――」
柚希は、彼が淹れたぬるい紅茶を啜りながら、極めて自然な動作で相槌を打つ。
ルカの「帰りたい」という切実な願いを否定せず、ただ優しい箱に包んで保管してあげること。それが、この一年間で柚希が獲得した役割だった。
けれど、胸の奥底に沈んでいる感情は、そんな清廉な善意だけでできているわけではなかった。
このままずっと、帰る方法なんて見つからなければいいのに。
彼が元の世界に帰るということは、柚希の退屈な日常から「奇跡」が永遠に失われることを意味していた。
何より、向こうの世界に帰ってしまえば、彼には死ぬ未来しかない。
あちらの世界で彼を待っているのは、栄光でも救済でもなく、ただの確実な終焉だ。彼が背負わされた過酷な宿命。そして、彼という存在を使い潰すために用意された残酷な結末。
ここにいれば無傷でいられるのに、元の場所へ帰るということは、彼が自ら死へ向かって歩いていくようなものだった。
死んでほしくない。生きていてほしい。
彼の命が助かることと、彼が望む場所で生きられることは、まったく別の問題だ。それなのに柚希は、「死なせないため」という免罪符を胸に抱えながら、やがて彼が諦めて、自分の腕の中に収まる未来を密かに夢見ている。
願わくば、彼の祈りが永久に届きませんように。
柚希は天使のような微笑みを張り付けたまま、心の中で毒液のように黒い願望を、静かに甘く育んでいた。
*
夏が巡ってきた。ルカと過ごす、二度目の夏だ。
一人暮らしでリモートワークに埋没していた頃の柚希にとって、夕食とは「処理すべき作業」あるいは「怠惰の言い訳」でしかなかった。疲れ果てた頭でデリバリーアプリの画面を滑らせるか、湯を注いで三分待つだけのインスタント麺で胃を満たす。自分は根っからの料理嫌いなのだと、疑いもせずに思い込んでいた。
だが、誰かが家にいるというだけで、人はここまで変わってしまうらしい。ルカと暮らし続けたこの一年、柚希は自分が「誰かのために包丁を握りたい側」の人間だったのだと、ささやかな驚きとともに知ることになった。
思い返せば、そんな小さな発見を一つずつ拾い集めてきた一年だった。
容赦ない日差しがアスファルトを焼く炎天下、柚希はルカの隣を歩きながら、ちらりと横に並ぶ彼の顔を盗み見る。
美容院に行ったばかりの彼は、どこか慣れない様子で短くなった襟足に触れていた。
重ために残されていた前髪が少しだけ払われ、整った目鼻立ちが容赦のない夏の日差しに晒されている。街ゆく人が思わず振り返るほど整った容姿を誇りながら、当の本人は自分に注がれる視線に、まるで無頓着だった。ルカのそういう所は時々、柚希を不安にさせる。
今だって、すれ違った制服姿の女の子二人がルカの顔を二度見し、頬を真っ赤にしてひそひそと囁き合っている。当の本人は相変わらず涼しい顔で歩いているけれど、その無自覚な立ち振る舞いが余計に彼女たちの視線を惹きつけていた。
本当に、どこにいても目立つんだからと、他人の熱っぽい視線に当てられ、胸の奥で小さくくすぶるモヤモヤに気を取られていた、その時だった。
「あっ、」
足元のわずかな段差を見落とし、柚希の身体ががくりと前に傾く。履き慣れないサンダルの先が引っかかり、視界が急速に地面へと迫った。
倒れる、と目を瞑りかけた瞬間、強い力で手首を掴み上げられた。
「柚希、危ない」
低い声と同時にぐっと引っ張られ、柚希の身体は宙で持ち上げられるようにして体勢を立て直す。鼻先にかすかにかすめたのは、家で使っているのと同じ柔軟剤の匂いと、日差しに温められたルカの体温だった。
「……ありがと、助かった」
「前を見て歩かないからだ。怪我はないか?」
呆れたような、けれどどこか保護者めいた眼差しで見下ろされ、柚希は小さく縮こまる。手首を握る彼の指の圧迫感が熱くて、今度は柚希の方が、すれ違った女の子たちと同じくらい顔を赤く染めることになってしまった。
「……平気」
握られたままだった手首がそろりと解放されると、急に皮ふが空気に晒されて、そこだけが妙に冷たく感じられた。柚希は動揺を隠すようにバッグの紐をぎゅっと握り直し、そっぽを向いて歩き出す。
ルカはそんな柚希の隣へ並んで歩調を合わせてくれた。先ほどまでの小さな雑音も、街の喧騒も、彼が差し伸べてくれた手の確かさによって、あっけなく掻き消されていく。
「……そういえば、昼間に二人で外を出歩くのなんて、すごく久しぶりだね」
照れくささを誤魔化すように呟くと、ルカは「そうだな」と短く応じた。
普段の二人は、陽光をレースのカーテンで遮った部屋で黙々とキーボードを叩くだけの日常を送っている。自宅という小さな密室に慣れきっていた柚希にとって、真夏の白日の下に二人で身を晒す時間は、眩しすぎてどこか非現実的だった。
けれど、今日はただの暑い夏の日ではない。
ささやかで、けれど二人の関係を少しだけ変えてしまう、特別な記念日だった。
柚希が斡旋した外注案件で少しずつ収入を得られるようになったルカが、ついにスマートフォンを手に入れた。契約者は柚希だが、本体代と月々の通信費はルカの財布から出すということになっている。
初めて自分のものとして手にした黒いガラスの板を握りしめたとき、彼は隠しきれない少年のような幼さで、瞳を揺らして喜んでいた。
「スマホを手に入れた時、なんだか嬉しそうだったね」
並んで歩きながら何気なく尋ねると、ルカは視線を泳がせることもなく静かに口を開いた。
「この世界の住人は、まるで身分証のようにスマホを持っている。だから、少し羨ましかった。それに、これで柚希と連絡が取れる」
「え」
当たり前の事実を報告するように発せられた言葉の熱量に、柚希の足がふっと緩む。ルカは柚希の驚きなど気に留める様子もなく、淡々と続けた。
「お前はすぐにスーパーで行方不明になるし、友人と飲みに行くと毎回遅くなる。だから、これがあれば便利だろう?」
「……そっか。うん、確かにそうだね」
不意を突かれた照れくささを覆い隠すように、柚希は素早く前を向く。手に持ったハンディファンのスイッチを強に切り替え、生ぬるい冷風を火照った頬に強引に吹き付けた。
「今日はルカのスマホ記念日だから、好きなもの作ってあげる。何がいい?」
信号待ちの影の中で尋ねると、ルカは少しだけ思案してから、あまりにも脈絡のない二つの料理名を口にした。
「きんぴらごぼうと、オムライス」
「……なかなかレアな組み合わせだね」
「駄目だったか?」
真顔で首をかしげるルカに、柚希は思わず吹き出してしまう。
「そんなことないよ。どっちも、立派な日本の家庭料理だから」
何の変哲もない一日だった。
異世界から落とし子のようにやってきた男が、現代の小さな端末を一つ手に入れただけ。それ以外は何の事件も起きない、退屈で、平熱の、ごく普通の夏の日。
だからこそ、柚希は甘やかな錯覚に囚われていた。
この温く満ち足りた日常が、明日も、明後日も、永遠にそのまま続いていくのだと。




