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24/27

24:元推しは、ゲーム内の基準で測れない

 クリスマスの翌朝、柚希はベッドの中で、昨夜起きたイベントフラグのような出来事を何度も頭の中で巻き戻していた。


 特に引っかかっているのは、彼が放ったあの一言だ。


『違う』


 あれは訓練なのかと尋ねた自分に対し、ルカは即座に否定してみせた。


 けれど、原作ゲームの中に、あんなイベントは存在しない。そもそもルカがヒロインのミレイと手を繋ぐ場面すら、シナリオのどこにも用意されていなかった。


 いや、正確には、手を伸ばそうとするシーンなら存在した。


「個別ハッピールート」という皮肉な名を与えられたシナリオの終盤。王冠のレガリアが放つ呪いを背負ったルカは、ミレイと心を通わせる。


 誰もが「ついにこの瞬間が来た」と画面の前で瞳を潤ませる中、ルカはミレイへ静かに問いかける。


『……触れてもいいか』


 ミレイが頷く。歓喜と緊張でプレイヤーの心臓が跳ね上がり、二人の指先が触れ合う――まさにその直前だった。


 レガリアの残酷な呪いが発動し、彼の全身が黒い結晶へと侵食されていく。ミレイの手を呪いで汚さぬよう、ルカは伸ばしかけた手を自ら引き抜き、そのまま声もなく砕け散った。


『え、これハッピールートだよね?』


 画面の向こうで美しく散った男と、行き場のない絶望を抱えたまま現実に取り残されたプレイヤーたち。


 結晶化に飲み込まれる直前、ルカが最初で最後に見せた無防備な感情と、彷徨う指先。「……触れてもいいか」という切ない乞いとともに描かれたスチルは、数多のプレイヤーの情緒を粉々に破壊し、ルカ推しを自称する狂信者たちを絶望の底へ叩き落とした、伝説の一枚として今なお語り継がれていた。


 だからこそ、不可解だった。


 昨夜、冷え切った冬の路上で、彼は――ルカ・ブライトは、柚希の手を握ったのだ。


 そもそもゲームのルカは、他者との接触を極端に忌避する設定として、繰り返し明記されていたはずだ。なのに、現実のルカは、自分から柚希の手を取った。


「あの行動は、ゲームのルカが破綻してる。おかしい……」


 何気なく口にして、初めて柚希は、「ゲームにない行動」という言葉の輪郭を、はっきりと意識した。


 一度自覚してしまえば、これまでノイズとして処理してきた違和感が、堰を切って浮かび上がってきた。


 ゲームのルカは料理をしない。だが彼はパスタを作った。


 ゲームのルカは対価を求めない。だが彼は己の力で働くことを選んだ。


 ゲームのルカはコードを書かない。ゲームのルカは柚希を知らない。ゲームのルカは「ありがとう」と言ったりしない。


 違っていたのではない。間違っていると思い込もうとしていただけだ。


 目の前にいる彼がどれだけ血の通った行動を見せても、柚希はいつだってゲームの公式設定を正解とし、そこから逸脱する彼をエラーのように扱っていた。違和感に気づいていなかったわけじゃない。正解と違うものを、正しくないと切り捨てていただけだ。


 積み重なった差分は、もはや設定のブレで回収できる限界を超えていた。


 そして、決定的な違和感が訪れたのは、その夜の夕食の席だった。


 柚希が何気なく食卓に出した、常備菜のきんぴらごぼうを、ルカが箸で摘んでは、繰り返し口に運んでいる。


「これ、好きなの?」


「まあ、嫌いではない」


「でも、ゲームでは、好きだなんて設定、なかったよ」


「ゲーム?」


 聞き返されて、柚希は初めて気づいた。


 自分はまた、無意識のうちに、目の前の男を「ゲーム内のキャラ」という基準で測ろうとしていた。


 しかし、目の前にいるルカにとって、好き嫌いというのは、設定資料集の一項目として誰かに与えられるものではない。ここに至るまで生きてきた時間の中で、自然と育ったものにすぎない。


 それを、いちいち設定資料集と照合しようとする自分の癖こそが、もはや異常なのかもしれなかった。


「お前は、まだ俺がゲームの世界から来たと思ってるのか?」


「……思い込もうとしてた」


 柚希は手元の熱い緑茶に視線を落とした。揺れる湯気の向こうで、ルカがこちらを見つめているのがわかった。


「ゲームの中のルカなら、完璧に理解できてると思ってた。どの選択肢を選べばどう動くか、どんな過去があって、どんな結末を迎えるか……全部、攻略サイトみたいに暗記してたから」


 箸を止め、ルカは静かに柚希の言葉を待っている。


「でも、違ったんだよね」


 柚希は自嘲気味に笑い、きんぴらごぼうの小鉢を指さした。


「ゲームの中のルカ・ブライトは、きんぴらごぼうなんて食べないし、PCの前で夜を明かさない。私が好きだったのは、誰かが作ったシナリオ通りの『ルカ』で……目の前にいるルカのことは、私、最初から何ひとつ知らなかった」


 推しという概念の殻を破って、生身の存在が目の前に立っている。


 その事実をようやく認めた瞬間、胸の奥を刺したのは、焦燥でも混乱でもなく、得体の知れない静かな切なさだった。


「知識を誇る割に、観察眼が足りないな」


 ルカは短く吐き捨てると、何事もなかったかのように再び箸を動かし、きんぴらごぼうを一口で平らげた。


「お前が知っている『俺』がどうであれ、いまここで腹を減らし、コードを叩き、お前と飯を食っているのは俺だ。……それ以上に確かな設定が、どこにある」


 淡々とした、けれど一切の反論を許さない正論。


 窓の外では、クリスマスの飾りが爛々と輝いている。そんな浮かれる街の一夜限りの幻想とは対照的に、この狭い部屋には確かで静かな現実だけがあった。


 画面の向こうの悲劇的な王子は、もうどこにもいない。目の前にいるのは、設定資料集のどこにも載っていない、自分だけの時間を刻み始めた一人の男だった。


 その夜、柚希は改めて、ゲームのシナリオを頭の中で見返した。


 王族。暗殺者。犠牲。悲劇。必ず死ぬ男。


 ゲームが描いていたルカは、物語の進行に必要な要素だけを、極めて効率的に切り取った存在だった。


 朝、目が覚めて何を食べるのか。どんな家具を好むのか。疲れたときに、どんな顔をするのか。仕事で失敗したとき、どんな怒り方をするのか。何を楽しいと感じ、どんな未来を望んでいるのか。


 そうした、物語の本筋には不要な情報は、最初から一切、描かれていなかった。


 柚希は、はっきりと認めるしかなかった。


「私、ルカのこと、何も知らないんだ」


 何百時間もプレイし、設定資料の隅々まで暗記し、あれほど詳しいつもりでいた相手について、実のところ、何一つ知らなかった。



 *



 翌日、柚希は本人に直接尋ねてみることにした。


「ルカのこと教えて」


「どういう意味だ」


「例えば……好きな食べ物とか、嫌いなものとか。どういうときに怒るとか」


 ルカは、しばらく考え込むように黙った。


「そんなことを聞いて、どうする」


「知りたいから」


 言った瞬間、柚希は自分の口から出た言葉の質感に、微かな違和感を覚えた。


 以前の自分なら、この問いには、迷わず別の理由を添えていたはずだ。元推しだから。設定を確認したいから。


 だが今、口をついて出たのは、それとは違う、もっと素朴な動機だった。


 ルカは、意外そうに一瞬、目を見開いた。それから、逆に問い返してきた。


「なら、お前が何が好きか、教えろ」


 そこから、二人はぽつぽつと、互いのことを話し始めた。


 柚希は、好きな食べ物のこと、子供の頃のこと、大学時代の失敗談、仕事で苦手な作業、そして――クリスマスという行事を、いつからか少し苦手に感じるようになった理由。


「なるほどな。俺は――」


 ルカは、母親との記憶のかけらを、少しずつ話してくれた。好きだった食べ物。幼い頃に見た市井の景色。王宮に上がってから身についた習慣。苦手な匂い。日本と全然違う、アルセリオン王国の話。


 どれも、壮大な過去の全貌ではなかった。物語として整理される前の、断片的で、取るに足らない話ばかりだった。


 だが、その「どうでもよさ」こそが、柚希にとっては何よりも生々しい実感を伴っていた。


 夜が更け、自分の寝室に戻ってベッドに寝転びながら、柚希はぼんやりと考える。


 推しは、知れば知るほど好きになれた。設定を掘れば掘るほど解像度が上がり、愛着は比例して増していった。理解と好意が、常に同じ方向を向いていた。


 だが、ルカは違う。


 知れば知るほど、知らないことのほうが増えていく。掘っても掘っても、底が見えない。それなのに、もっと知りたいと思ってしまう。


「知っているから、好きだったんじゃない。知らないから、もっと知りたいと思ってるんだ」


 その違いに気づいた瞬間、柚希の中で、何かが静かに反転した。


 まだ、恋という言葉を使う気にはなれなかった。それを口にした瞬間、また別の何かが決定的に変わってしまう気がした。


 ただ、一つだけ、確かなことがあった。


 たぶん柚希は、もうルカを「元推し」として見てはいない。

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