9 不可解な熱 2
いつもありがとうございます!
今回もすこーし甘め?な展開です!
お楽しみ下さい!
執務室の静寂に、規則正しい二つの呼吸音が重なっていた。
アリスの膝に頭を預けたまま眠りについていたノアだったが、脳の知覚過敏が急速に沈静化したことで、彼の意識がふっと覚醒した。
「……ッ」
ゆっくりと目を開けたノアの視界に飛び込んできたのは、至近距離にあるアリスの無防備な寝顔だった。自分の膝の上で眠り落ちたノアを支えるように、アリス自身もソファにもたれかかり、すやすやと小さな息を立てて眠ってしまっていたのだ。
そして——自分の右手が、彼女の小さな手と指を深く絡めるように固く握り締められている事実に気づく。未婚の男女が、手袋も通さず肌を重ね、膝を貸し出すなど、このヴィクトリア朝の倫理観においては正気の沙汰ではない。一歩間違えれば淑女の評判を根底から失わせるほど不道徳で、スキャンダラスな体勢。
それほどの異常事態であるにもかかわらず、ノアの脳内で弾けたのは倫理的な拒絶ではなく、解き明かせない未知の数式だった。
(……非論理的だ。僕の体温上昇、心拍数の異常な増加、脳内神経伝達物質の過剰分泌……)
ノアの脳内で、青い計算式が激しく明滅する。
(この構造体が触れると、世界を焼き尽くす激痛が消える。彼女が僕の名を呼ぶと、完璧だったはずの方程式がすべて狂う。
……もし彼女が僕の視界から消え去った場合、僕の思考回路は二度と正常値を復元できない——)
冷酷で完璧だったはずの自分の世界。そこに侵入した一輪の花のような少女。もし彼女を失えば、自分は再びあの冷たく痛みに満ちた孤独の暗闇へ引き戻される。
知性という名の装甲が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
ノアはアリスを起こさないようにゆっくりと起き上がると、吸い寄せられるように、無意識のうちにアリスの顔へと顔を近づけていた。
アリスの規則正しい吐息が、ノアの肌をかすかにくすぐる。
(……あ)
かさ、と髪が触れ合うかすかな音。
ノアは吸い込まれるようにアリスの顔へと引き寄せられ、彼女のこめかみあたりへ、柔らかい髪の上からそっと静かに自身の唇を重ねていた。言葉も、理屈も、時代の常識すらも超えた、密やかで無自覚な誓いのように。
その瞬間。
カチャリ。
執務室の扉が、音もなくわずかに開いた。
トレイの上に淹れたての紅茶を乗せた老執事バロウズが、静かに部屋の中へと足を踏み入れた——まさにその瞬間であった。
「……っ!?」
慌てて唇を離したノアの目が、見開かれた。
バロウズと、バッチリ視線が衝突する。
ノアの高性能な頭脳が、人生最大級のフリーズを起こした。顔面が耳の先端まで爆発したように真っ赤に染まり、ノアは立ち上がろうとして派手に机の脚に膝をぶつけた。
「バ、——っ!!」
普段の冷徹な姿は雲散霧消し、支離滅裂なド理系言い訳を早口で捲し立てようとしたノア。
——だが。
長年彼に仕えてきた老執事は、事態の「重大さ」と「二人の純粋さ」を一瞬で見抜いていた。バロウズは優しく目元を細めると、紅茶のトレイを持っていない方の手の指を、すっと自身の唇に当てた。
「……しーっ」
音を立てないように、けれどいたずらっぽく微笑みながら。眠っているアリスを起こさないよう、胸の前でそっと手を合わせるようなジェスチャーを見せ、目元だけで語りかける。
(坊ちゃま……二人だけの、秘密でございますよ)
紳士としての弁えも、破廉恥なゴシップも超えた場所にある、若き主人の「初めての情熱」。言葉には出さず、ただその温かい仕草だけで深い「理解」を示した老執事に、ノアはぐうの音も出ず固まった。
バロウズは静かにトレイを近くのテーブルに置くと、深々と一礼し、足音一つ立てずに部屋を出て扉を閉めた。
残されたのは、静かな執務室と、真っ赤な顔のままアリスの隣で完全に固まっているノア。
「……ふぁ……ん……ノア……?」
バロウズに出て行かれた気配に、アリスがうっすらと目を擦りながら目を覚ました。
「あ、ごめん……私、寝ちゃってた……? ……って、ノア!? 顔、ものすごく赤いよ!? まだ熱があるんじゃ——」
「……黙れ!!」
ノアは爆速でジャケットの襟を極限まで引き上げ、顔の半分を覆い隠しながら、激しく動揺した声で明後日の方向を向いた。
「……僕の体温は正常値だ! 騒ぐな、構造体!!」
「なによ、急に怒らなくたっていいじゃない。心配したのに!」
ぷんぷんと怒るアリスの横で、ノアは手で顔を覆ったまま、二度と戻らない心拍数の高鳴りを抑え込むのに必死だった。
(……異常だ。完全に……方程式が狂っている……っ!)
二人の夜は、熱と秘めやかな秘密を抱えたまま、静かに更けていくのだった。
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