8 不可解な熱 1
いつもありがとうございます!
今回は少しラブコメ?編です。
お楽しみ下さい!
最悪の第一印象だった出会いから、およそ一ヶ月。
『黒い貴婦人』をはじめとするいくつかの事件をともに追いかけるうちに、アリスとノアの関係は、街の誰もが驚くような「妙な相棒」として定着しつつあった。
——そして今日。
二人が解決した事件の翌日のノアの事務所兼自宅の執務室でも、いつもの会話が繰り広げられている。
「……ふむ。運動能力の高さは認めるが、自己管理能力においては落第点だな」
ノアは呆れたように溜息をついた。彼の前には、ソファに座らされたアリスがいる。ノアはその小さな手を取り、驚くほど繊細な手つきで包帯を巻いていた。
「痛っ……。まったく、誰のせいで酒場の大乱闘に巻き込まれることになったのよ……。そもそも最初はノアが私を巻き込んだんじゃない!」
「僕が要請したのは酒場の主人への聞き込みまでだ。鉄芯入りの傘で乱闘に突入したのは君の自主的な判断によるものだ。……それに、痛むのは当然だ。生体組織が損傷している」
「それは、ノアが殴られそうになってたから助けたんでしょ。ほんっと、素直に『助けてくれてありがとう』って言えないわけ?」
ノアは一瞬ピクッと眉を動かし、気まずそうにそっぽを向いた。
「……感謝という感情表現は物理的に無意味だ。……それより動くな。包帯の張力が狂う」
言いながらも、アリスが小さく眉をひそめるたびに、ノアの指先はおずおずと優しくなり、壊れ物を扱うような手つきに変わる。
アリスはふと、ノアの真剣な横顔を見つめた。眼鏡の奥の青い瞳が、アリスの小さな手先の傷一つひとつを、恐ろしいほどの高解像度で検分している。端的に言うと、すっごく手を見つめられている。
そこへ、慌ただしい靴音が響き、ドアをノックする音が聞こえてくる。バロウズが招き入れたレストレード警部の部下である若手巡査が、執務室のドアをノックし、ドアを開けながら大きな声で報告する。
「失礼します!カーライル特別顧問! レストレード警部からの言伝です! 先日の事件の犯人がどうしても口を割らず、顧問の観察眼で——」
「出ていけ」
ノアは振り返りもせず、氷のように冷たい声を言い放った。
「えっ……? あ、あの、警部からの指示で——」
「現在、僕は極めて精密な生体組織の修復作業を行っている。貴様の生み出す空気の振動と余計な体温は、僕の計算精度を狂わせる。……許可なくこの領域に立ち入るな。失せろ」
「ひぃっ……! し、失礼しましたぁっ!」
ノアから放たれた本気の殺気に青ざめ、哀れな巡査は逃げるように扉を叩き閉めた。アリスは口をぐうの音も出ないほど開けて固まっていた。
(私、当たり前みたいにノックもなしでこの部屋に入ってるんだけど……?)
「ノア……あの、私、ノアの邪魔になってない? あの巡査さん半泣きだったよ?」
「あのような下っ端は制服を着た背景に過ぎん。
だが君の発する生体反応だけは……僕の思考回路を正常に保つために不可欠な構成要素だ。立ち入りを許可している」
「構成要素……」
(相棒ってことよね。……うん、分かってる。ノアは私を便利な助手として買ってくれてるんだ。)
アリスは密かに胸の奥をチクリと刺されながらも、「相棒」としてノアを支えようと決意を新たにした。だが、ノアの「無自覚な異常行動」はそれだけで終わらなかった。
「アリス。昨夜のデータ検分により、君の身体組織に複数の異常値を検出した」
「え? 異常値?」
ノアは無表情のまま、ずらりと並べられたメモ用紙を指さした。
「第一に、右足の荷重バランスが通常値より3.2%偏っている。靴擦れだな。……僕が調合した皮膚保護軟膏を塗れ。第二に、君の歩幅が今朝から4センチ狭い。筋膜の疲労だ。……バロウズに命じて、君の自宅まで送迎用の特注馬車を手配させた。今後は毎朝夕、それに乗れ。第三に——」
「ちょ、ちょっと待って!!」
アリスは叫んだ。
「なんで私の靴擦れとか歩幅の数センチの違いまで知ってるのよ! 気持ち悪いわよ!?」
「気持ち悪いとは心外だな。僕はただ、君という生体データをコンマミリ単位で観察・計測しているだけだ」
「それをストーカーって言うの! ノ、ノアの記憶力がいいのは知ってるけど、全員のそんな細かいことまで覚えてるの?」
「?そんなわけあるまい。物理的に不可能な計算量だ。……他の人間のデータなど不要な情報に過ぎん。だが君の動きは、僕の視界に入った瞬間、脳が勝手にミリ単位で解析を始めてしまうんだ。ここまで記憶に刻まれるのは君だけだ」
ノアは「何を当然のことを」と言いたげに首を傾げた。
(な、なんでこの人、そんな勘違いしそうなことを真顔で言えるの!?)
アリスの顔が、熟したトマトのように真っ赤に染まる。
「も、もういいよ。ありがとう。わ、私、お花屋さんの仕事があるから帰るね!」
アリスがバッと立ち上がり、執務室を飛び出そうとした——その瞬間。
ギュッ。
ノアが無言で、ものすごい早さでアリスの服の裾を力いっぱい掴んだ。
「……な、なに? 放してよ、ノア」
「……だめだ」
「なによ『だめだ』って……どういう意味?」
ノアは眼鏡の奥の瞳を揺らし、言葉に詰まった。
「……手当てが、まだ完了していない。……血糖値の補給もまだだ。……僕の思考環境を維持するために、隣にいろ」
絞り出すようなノアの言葉は、相変わらず「理屈」の面皮を被っていた。
だが、アリスの裾をギュッと掴んで離さないその指先は、まるで母親に置いていかれそうな子供のように震えていた。
(もう、なんなのよこの人……)
アリスは真っ赤な顔のまま、深々と溜息をついた。
(「邪魔だ」とか冷たいこと言うくせに……こんな顔で引き留められたら、行けるわけないじゃない……っ!)
「……わ、わかったわ。紅茶、飲んでいくわよ……」
アリスが諦めて座り直すと、ノアはホッと安堵したように息を吐き、掴んでいた裾をそっと放した。
——だが、その直後だった。
「ノア……?」
ノアの顔から、すうっと血の気が引いていく。カチャリ、と眼鏡が滑り落ちる。
「ッ……ぐ……あっ……!」
「ノア!? 大丈夫!?」
ノアは両手で頭を激しく抱え込み、その場に崩れ落ちるように膝をついた。うめき声とともに、額からは大きな汗の粒が噴き出している。連日の捜査と、先ほどのアリスの立ち去りによる動揺が重なり、溜まっていた疲れが一気に爆発したのだ。
(顔色悪いと思ってたけど……!)
「ノア! しっかりして!バ、バロウズさん…!」
外出しているのか、扉の外から人の気配は感じられなかった。アリスが慌てて駆け寄り、彼の肩に手を触れようとした——。
「触るなッ!!」
ノアが叫んだ。声が激しく震えている。
「接触情報を……処理しきれない……不快だ、消えろ、誰も僕に触れるな……っ!」
普段の冷徹な姿はどこにもない。凄まじい苦痛に耐えかね、身体を丸めて威嚇する手負いの獣のような姿。警察官たちが彼を恐れ、誰も踏み込めなかった理由。それはノア自身が、この激痛の中で周囲を拒絶し続けていたからだった。
一瞬、その殺気立った拒絶に恐怖で足がすくむ。
(……怖い。でも……)
こんな激痛と恐怖を、ノアはずっと一人で抱え込んできたのだ。
(私は相棒でしょ、アリス……! ここで怯んでどうするのよ!)
アリスは水差しの水を含ませたハンカチを手に取ると、腹を括って彼の前へ膝をついた。
「ノア、待って……熱があるんじゃないの!?」
「寄るなと言っている——」
威嚇するように振り払われそうになる手を、アリスは間一髪でかわした。そして拒絶にひるむことなく、まずは冷たいハンカチをノアのこめかみにそっと当て、空いた手の甲で彼の額に優しく触れた。
「……ッ!?」
触れられた瞬間、ノアの身体が跳ねるように硬直する。 手の甲から伝わる彼の熱気を感じ取りながら、アリスはそっと息を吐いた。
(……肌の熱はそこまで高くない。知恵熱……ううん、脳の過熱ね)
熱病ではない。ノアが苦しんでいるのは、彼の脳を焼き尽くさんとする過剰な情報と、拒絶が生む孤独の恐怖ではないのか。いつも自分が去ろうとする時に、服の裾を掴むノアを思い出す。
そう思ったアリスは、怯える手負いの獣を包み込むように、そっと自分の額をノアの額へと重ね合わせた。至近距離で見つめ合う瞳。
「うん、熱はなさそうだけど……」
目を閉じ、彼を慈しむようにささやく。
「……痛いの痛いの、飛んでいけ。大丈夫、怖くないよ。私がここにいるから……何も計算しなくていいの」
アリスの温もりと、ふわりと香る優しい花の匂い。
それらが額を通じて伝わった瞬間、ノアの瞳から刺々しい威嚇の色がすうっと消えていった。彼を苛んでいた嵐のような苦痛が、嘘のように静まり返っていくのが分かる。
「あ…………?」
世界のノイズが消えたように焦点が定まり、まっすぐにアリスだけをとらえる青い瞳。
「……アリス……?」
「うん、そうだよ。……嫌、だった?」
目を開き、優しくノアを見つめるアリス。
ノアは言葉を失っていた。他人に触れられるだけで激痛を覚えるはずの彼が、アリスの体温にだけはすがりつくように息を整えている。
「……嫌だとは……言っていない……」
小さな子どものようなかすれた声。そのまま糸が切れたようにノアは脱力し、目の前にいたアリスへと倒れ込んだ。
「わっ……!? ノア!?」
支えきれなくなったアリスは、そのままソファへドサッと座り込む。結果として、崩れ落ちたノアの頭を自分の膝の上でしっかりと受け止める形になった。
ノアはアリスの膝に頭を預けたまま、規則正しい寝息を立て始めている。あまりの疲労に、限界を迎えて眠りに落ちてしまったのだ。
膝の上に伝わる、ノアの規則正しい体温と重み。
そして彼は無意識のうちにつかまえたアリスの手を、ギュッと力強く握りしめたまま離しようとしなかった。
(ど…どうしよう…。誰かに見られたらどうするのよ……。こんなの、婚約者でもないのに……っ)
本来ならあり得ないほど親密な体勢。
けれど、自分の膝の上で幼子のように安心しきった寝顔を見せられては、引き剥がすことなどできるはずもなかった。
「……ずるいよ、ノア……」
アリスは顔を真っ赤にしながら、そっとノアの柔らかい髪に指を通した。
「『邪魔だ』なんて言うくせに……こんな風に頼られたら……私、本当に勘違いしちゃうじゃない……」
言葉と行動がすれ違い続ける二人の夜に、静かで確かな熱が灯っていた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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