7 黒い貴婦人盗難事件 5
いつもありがとうございます!
黒い貴婦人盗難事件の続きです。
かっこいいアリスを堪能して頂ければと思います!
「……で? 君のその妙にこなれた傘の握り、および重心の置き方。自己流ではないな」
夜のロンドンを疾走する馬車の中。向かいに座るアリスの佇まいを、ノアは眼鏡の奥から検分するように見つめていた。
「ふふん、気づいた? 今、ロンドンの婦人たちの間で話題になってる護身術『バティツ』の教室に通ってるのよ! 早朝の市場でお花を仕入れる時、治安の悪い路地を通ることもあるでしょ?ステッキや傘を使った間合いの取り方と突きの基本はバッチリなんだから!」
胸を張るアリスに、ノアは小さく息を吐いた。
「イギリス伝統のボクシングに東洋の柔術、そしてフランスのステッキ術を折衷した護身術か。……運動力学的には解釈できるが、実戦で機能するかは甚だ疑問だな」
「もうっ、すぐそうやって物理みたいに分析する…。現場で見せてあげるから見てなさいよ!」
アリスがぷっと頬を膨らませたところで、馬車がゆっくりと停車した。
「……着いたぞ。テムズ川沿い、旧レンガ窯だ」
馬車を降りると、湿った川風とともに廃窯の重々しい影が迫っていた。アリスが疑問を口にする。
「でもノア、犯人が男爵なら、なんで立派なお屋敷じゃなくてこんなボロい場所に潜んでるの?お屋敷の温室で鑑賞すればいいのに」
「思考が浅いぞ、アリス。盗まれた『黒い貴婦人』は極めて繊細な希少植物だ。屋敷の温室に運び込めば使用人に一発で見咎められる。だが、この廃レンガ窯の厚い壁は外部の光を完全に遮断し、川からの湿気が溜まる天然の暗室温室だ。
……それに」
ノアは不気味に静まり返る建物の裏手を顎でしゃくった。
「窯の裏手はテムズ川の水運ルートに直結している。今夜ここで闇取引を終え、そのまま船で国外へ密輸する気だ。
……コレクションの隠し場所であり、オークション会場であり、逃走経路というわけだな。行くぞ」
二人は息を殺し、レンガ造りの重厚な扉の隙間から内部を覗き込んだ。窯の奥、ランタンのほのかな光の中に、ガラスケースに収められた怪しくも美しい黒い花鉢が鎮座していた。
その傍らには、サロンの写真に写っていたハーヴェイ男爵と、密輸ブローカーらしき男たちが札束の詰まった鞄を挟んで談笑している。
「よし、取引の現場は押さえた。ヤードの警官隊が到着するまで、このまま物陰で潜伏——」
ノアが冷静に状況を判断し、アリスに身を引くよう合図を出した、その瞬間だった。グラリと、足元の古いレンガの破片が崩れ、乾いた音を立てて転がった。
「——誰だ!?」
闇の中から男爵の怒声が響く。密輸ブローカーの合図で、ランプの光が一斉にノアたちの潜伏場所を照らし出した。
「チッ……。……アリス、下がれ!」
見つかったとなれば躊躇はない。大柄な用心棒たちがナイフを抜いて一斉に飛び出してくる。
「初速、距離、風速……すべて合致」
カチリと引き金を引く音と同時に、ノアのリボルバーが火を噴いた。乾いた砲心が響き、先頭の用心棒が手にしていたナイフが的確に弾き飛ばされる。だが、弾倉の切れ目を狙い、もう一人の用心棒が横合いからノアへ肉薄した。
「ノアには指一本触れさせないわよ!」
不意に割り込んだのはアリスだった。アリスは鉄芯入りの黒傘を両手で水平に保持すると、相手が振り下ろした打撃を傘のシャフトで見事に受け流す。乾いた金属音が響き、体勢を崩した用心棒の懐へ、アリスは軸のぶれない体幹から一歩踏み込んだ。
「ハッ!」
すれ違いざま、鋭い踏み込みとともに傘の先端を用心棒の膝裏へ正確に叩き込む。支点を奪われた巨漢は、一瞬で床へ崩れ落ち起立不能となった。鮮やかなバティツの技だった。それを見たノアは、素早くリボルバーを再装填しながらボソリと呟く。
「……力学的ベクトルを利用した支点破壊。……フン、予想よりは打撃の精度が高いな」
「『予想より』は余計! ちゃんと『すごい』って言いなさい!」
追い詰められたハーヴェイ男爵が、ヤケクソになって「こうなれば、この花だけでも持って逃げてやる!」と『黒い貴婦人』のガラスケースへ手を伸ばし、抱え込もうとした。
「させない!」
アリスが疾走し、突き出された傘の柄で男爵の手首を鋭く跳ね飛ばす。悲鳴を上げて転倒する男爵から、ガラスケースを身を挺して抱きかかえて庇い立てた。直後、重厚な扉が激しく叩き開かれた。
「そこまでだ、ハーヴェイ男爵! 動くな!」
電信を受けて付近の巡回部隊を大急ぎで急行させたレストレード警部と、警官隊が雪崩れ込んできたのだ。静まり返る窯の中で、警察の手縄をかけられる男爵を見下ろし、ノアは眼鏡の位置を直した。
「すべての物理データと貴様の強欲さが、ここへ導いた。……残りはヤードの仕事だ」
◇
夜明けの薄明かりがロンドンの街を照らし始めていた。現場ではヤードの警察官たちが、慎重な手つきで証拠品である『黒い貴婦人』のケースを押収し、馬車へ積み込んでいる。それを見届け、アリスはほっと胸を撫で下ろした。
「よかった……お花も傷ついてないし、これでちゃんと依頼主さんの元へ戻るね」
ノアは上着の埃を軽く払い、馬車の扉を開けながらそっぽを向いた。
「フン、無駄な運動で血糖値が下がった。……帰ったらバロウズに最高の紅茶とスコーンを用意させろ」
「もう、どこまでも上から目線なんだから。でもまあ……今夜はお手柄だったから、特別にお付き合いしてあげるわ!」
朝靄の漂うロンドンの街を、二人の影を乗せた馬車が軽やかに駆け抜けていった。
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