6 黒い貴婦人盗難事件 4
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黒い貴婦人盗難事件も大詰め。
二人は事件を解決できるのでしょうか?
「……無駄な時間を過ごした。」
ヤードの警察官たちが騒々しく立ち回る事件現場の隅で、ノアは提供された事件資料の写真と、重体で病院へ搬送された屋敷の執事の状況を淡々と検分していた。アリスが横から身を乗り出すように覗き込む。
「ねえノア……重体で見つかった執事さん、命に別条はないみたいだけど……やっぱりあの毒にやられちゃったの? 侵入時刻は午前三時だって言ってたじゃない」
「……単純な遅延・感知トラップの構造だ」
ノアは無表情のまま、青い幾何学模様の計算式を頭の中に走らせながら解説を始めた。
「犯人は午前三時に侵入し、『黒い貴婦人』と屋敷の貴重品を奪った後、蒸気仕掛けの圧弁に細工を施していった。特定の動作……つまり『温室の扉を開ける』という物理的刺激で、毒気が充満する遅延タイマーが作動する仕組みだ。
早朝、異変に気づいて温室の扉を開けた執事は、一回目のトラップを起動させてしまい、高濃度の毒気を吸って倒れた」
「じゃあ、私たちが閉じ込められたのは……」
「僕たちが足を踏み入れたことで二回目のトラップが作動した。ボイラーの蒸気圧が再充填されることで一定時間ごとに自動復旧するカラクリだ。
執事が倒れた原因も、僕たちが閉じ込められた理由も、すべてあの圧力弁の構造通りに起きた物理現象に過ぎない」
カラクリの全貌をあっさりと解き明かしたノアは、そのまま手元の写真を指で叩いた。
「……さて、本題だ。これは盗まれる前の『黒い貴婦人』の写真だが…」
アリスはプロの花屋としての鋭い視線を、写真の小さな細部に注ぎ込んだ。
「……うーん、ここ、気になるなあ。この切り口の角度と茎の潰れ方が変なの。刃が入る方向が右から左へ微妙に傾いている……。ノア、この綺麗な剪定をやった人、『左利き』じゃないかな」
「……ほう」
ノアは眼鏡の奥の瞳をわずかに細めた。
「ふむ、確かに。植物の切り口の刃の入射角からして、左利きの人間が剪定している可能性が高いな。
……よし、役割を分散する。アリス、君はそのままこの屋敷に残り、庭師をはじめとする使用人たちの利き手と人間関係を調査しろ。ヤードの無骨な警官どもより、花屋の君の方が警戒されずに話を引き出せる。
僕は事務所へ戻り、現場で採取した物質データの分析と土地の絞り込みを行う」
「わかった。やってみる!」
「すぐに僕の執事に馬車で迎えに来させる。……行くぞ」
ノアは素気なく言い捨てると、一人呼びつけた馬車に乗り込み、現場を後にした。
◇
ノアの自宅兼事務所の書斎。
静謐な室内に、薬品の匂いと器具の触れ合う冷たい音が響いていた。ノアはヤードでは騒がしくて集中できないという理由で、いつもこの部屋で一人頭を巡らせていた。
ノアは顕微鏡を覗き込み、現場で拾い上げた「赤土」と「高級生地の繊維」のかけらを、ヤードとは別に独自に分析し続けていた。
「……ケイ酸塩と酸化鉄の含有比率が高濃度。焼き固まり具合から見て、これはただの粘土ではない。
……ロンドン東部、テムズ川沿いに点在する『レンガ窯』周辺の特殊な赤土だ」
ノアは頭の中のロンドン詳細地図を展開し、該当するエリアを一瞬でハイライトしていく。
そこへ、静かに扉が開いた。
「坊ちゃま。アリス様をお連れいたしました」
老執事バロウズに促され、馬車で送り届けられたアリスが「お、おじゃまします…」と部屋に入ってきた。温かい紅茶と焼き菓子を振るまわれて少しほくほくした顔で、手に一枚の写真と手帳を持っている。
「ノア、成果があったわよ!」
「……報告を聞こう」
「お屋敷のお抱え庭師さんは『完全な右利き』だったわ。だから私、ちょっと世間話をしてきたの。『ご主人様のお友達で、手入れに勝手に口を出してくる困ったお客さんっていませんか?』って。」
アリスは身振り手振りを交えて再現してみせる。
「そしたら庭師さん、日頃のストレスが大爆発! 『旦那様のお友達の貴族様でな、自分の家みたいに温室に入り込んでは勝手にハサミを入れる迷惑な奴がいるんだ!』ってペラペラ喋ってくれたわ。サロンにご友人たちの写真があって、お屋敷の奥様に頼んで借りてきたの!」
アリスがテーブルにバサッと広げたのは、屋敷の一家と、友人たちが写った一枚の写真だった。
* 紳士A: 右手でグラスを持ち、左手でペンを持っている。
* 紳士B: 右手でパイプを持ち、左手でマッチを擦っている。
* 紳士C: 右手でシガーカッターを使い、左手で葉巻を持っている。
「無自覚な心理誘導による情報抽出、および、共感による協力要請か。……不格好だが、成果としては評価しよう」
ノアは写真を手に取り、眼鏡の位置を直しながら分析を開始した。
「あ! ノア、この『紳士B』って人じゃない!? 左手でマッチを擦ってるよ! …ん?でも、『紳士A』も左利き?」
「……浅はかな観察眼だな、アリス。この写真の背景を見ろ」
「え? 背景……? 時計と、暖炉……?」
「時計の文字盤の数字が左右反転している。サロンの壁画の向きも逆だ。……元になった写真は、姿見(鏡)越しに室内全体を撮影したものだな。
全体の画角を収めるための手法だ」
「えぇっ!? 鏡越しに撮られた写真だったの!?」
ノアの脳内で、青い計算式とともに写真の立体構造が一瞬で180度反転(脳内補正)された。
「空間を反転処理する。……左手でマッチを使っていた『紳士B』は、実像では『右手』だ。そして、一見右手で葉巻を扱っていた『紳士C』——彼こそが、実像において『左手』で刃物を使っている真の左利きだ」
ノアの思考回路が、脳内の貴族データベースを一瞬で検索・合致させる。
「……ハーヴェイ男爵だな。社交界でも有数の植物コレクターだが、裏で莫大な借金を抱えている。盗まれた貴重品も、彼の借金返済の補填と考えれば辻褄が合う」
「え、貴族を全員覚えてるの? すごい!」
アリスが目を輝かせて大絶賛する。ノアは視線すら動かさず、デスクの傍らに鎮座する分厚い『貴族領地年鑑』の目的のページを、迷いなく一発で開いた。
「……あったぞ。破産差押を免れるために放置された隠し資産リスト……テムズ川沿いの『廃レンガ窯』だ」
ノアは細い指先で紙面の一行をトントンと叩いた。
「あっ! あの赤土の場所……!」
「高級仕立て屋の生地、左利きの男爵、そして男爵所有の廃レンガ窯……すべての物理データが一点に収束した。犯人はハーヴェイ男爵。潜伏先は廃レンガ窯だ」
ノアは眼鏡のフレームにそっと指を添え、冷ややかな瞳の奥に思考の影を走らせた。
「……だが、ハーヴェイ男爵にあれほど精密なボイラー連動の自動密閉回路が用意できるか……? ……ふむ」
「え? 何か引っかかるの、ノア?」
「……いや。男爵の背後に、ただの貴族の道楽では済まない『不穏な知性』を感じただけだ。あのような悪趣味な機械仕掛けを好む男に……一人、心当たりがある」
ノアはそれ以上追求せず、冷淡に言葉を打ち切った。
「……まあいい。今は犯人の確保が先決だ。ヤードの手続きを待つ時間などない。植物の保存環境、および容疑者の逃亡リスクを考慮すれば、一刻の猶予もない。
……今すぐ向かう。バロウズ、レストレード警部へ電信を打て。廃レンガ窯へ警官隊を急行させろと」
「かしこまりました、坊ちゃま」
バロウズが深々と一礼する。
ノアは仕立ての良い上着の内ポケットに手を入れ、ずっしりと重い冷たい金属を取り出した。
カチリ、と静かな金属音が響く。
黒光りする回転式拳銃の弾倉を確認するノアの姿に、アリスは驚きつつも、すっとノアの家の玄関にある傘立てに視線を向けた。
「バロウズさん! こちらの仕込み傘、お借りしてもいいですか!?」
「ええ、どうぞアリス様。頑丈な鉄芯が入った品でございます。お気をつけて」
アリスは傘立てからずっしりと重い黒い傘を引き抜くと、その重さや、握り具合を確かめた。ノアは眼鏡の奥の瞳をわずかに見開き、そっぽを向きながらボソリと呟いた。
「……なるほど。傘か」
「よし。さすが、いい物を持っているわね、ノア!」
「……無駄な雑談は終わりだ。行くぞ、アリス。とっとと、この事件を終わらせる」
「もう、上から目線なんだから。待ってよ、ノア!」
夜の帳が降りたロンドンの街へ、二人の影が勢いよく飛び出していった。
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