5 黒い貴婦人盗難事件 3
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黒い貴婦人盗難事件の続きになります!
ノアとアリスのバディ感を楽しんで頂ければと思います!
「ひどい……花壇がこんなに荒らされて……」
アリスは温室に入ると、痛ましそうに顔を曇らせた。広大な温室の中央、ポッカリと空いた一角の土を撫で、アリスは鋭く眉をひそめる。
「盗まれたのは『黒い貴婦人』ね。……この品種は湿度と温度管理がすごく繊細で、根を傷つけたら一瞬で枯れちゃうの。こんなに綺麗に土ごと掘り起こすなんて……犯人はお花を取り扱う知識が相当ある人よ」
「……フン。植物の生態などどうでもいい。……だが、観察力だけは一人前に機能しているようだな」
ノアは無表情のまま、眼鏡の奥の瞳で温室全体を「構造視」し始めた。彼が見つめる青い世界に、幾何学模様と物理の計算データが展開されていく。
「…犯人は裏の勝手口から侵入した。土の踏み固められ方と空気の流れから見て、侵入時刻は午前三時頃。
……ヤードの鑑識が見落としたのは、この排気煙突の異常だ。蒸気仕掛けを利用した温室の圧弁に、外部から不自然な細工が施されている」
後ろから恐る恐る覗き込んでいたカーター巡査が
「えっ!? 鑑識の目をすり抜けるカラクリが!?」
と驚愕する。
「犯人は証拠隠滅のため、進入者を感知すると安全弁を閉鎖し、高濃度の遅効性催涙毒気を充満させる遅延仕掛けを設置していった。
……今朝、早朝の見回りに入った執事が倒れていたのは、この仕掛けの一度目の起動に巻き込まれたからだ。待て。その作動の支点は——」
ガチャン!!!
背後で重厚な鉄格子の扉が不気味な音を立てて激しく閉まり、自動で重い鍵がかかった。
「キャッ!? な、なに!? 扉が閉まっちゃった……!?」
アリスが慌てて鉄格子に駆け寄り引っ張るが、ビクともしない。直後、天井の管から「シューッ」という不穏な音とともに、ほんのり甘い匂いのする白く薄い毒気が噴出し始めた。外で見ていたレストレード警部が顔色を変える。
「なっ、罠か!? 全員、扉を壊せ!!」
「だめだ警部! 鉄格子だ! 手斧程度ではびくともせん!」
とグレグソン刑事が叫ぶ。
「動くな、慌てるな。ボイラーの蒸気圧を利用してこの鉄格子を重圧で閉鎖させた上、催涙毒気を充満させる仕組みだ」
ノアは表情一つ崩さず、静かにメガネを押し上げた。毒気が充満し始める密閉空間にあっても、彼の知性は冷徹なまでに冴え渡っている。青い計算式が天井の配管網を一瞬で駆け巡った。
「ノア! 閉じ込められちゃったよ、どこか出口は……!?」
「騒ぐな。この構造はすでに解けている」
ノアはすっと右手を挙げ、天井近くにある温風管の接合部を迷いなく指さした。
「あの高所にあるラチェット式の緊急排気レバーだ。あそこに正確な衝撃を加えて一時的に押し下げれば、溜まった圧力が一気に上部へ抜け、連動して扉の重圧ロックが跳ね上がる」
「あの天井のボルトレバーね! よし、撃ち落とせばいいのね!」
「壊すな、一瞬だけ動かすんだ。……言っておくが、蒸気が供給され続けている以上、圧力が再充填されれば一定時間で自動的に弁が戻り、再びロックされる。外からの破壊も間に合わない。内部から投擲によってあの小さな一点に正確な衝撃を加える必要がある。通常であれば成功の確率は万に一つだが……君の運動能力なら可能だな?」
「ふふん、なめてもらっちゃ困るわね!」
アリスはノアの言葉にニッと不敵な笑みを浮かべると、腰のエプロンから、ずっしりと重い鋳鉄製の大剪定バサミを引き抜いた。重心の偏った刃物だが、毎日の剪定でその重みと手首のスナップは体に染み込んでいる。
「私ね、下町で男子に混ざって球遊びやってたの! 毎日の剪定で手首の力も鍛えられてるし、狙った場所は絶対に外さないんだから!」
「……よろしい。角度は四十五度、力点はボルトの右端だ。……やれ」
「任せなさい! ノア、しゃがんでて!」
アリスはノアの指示を受け、足元をしっかりと踏みしめた。その姿には、先ほどまでの可憐な花屋の少女とは思えない、たくましく美しい武芸者のような軸があった。手に馴染んだ重厚なハサミの重心を瞬時に把握し、遥か高所の「小さなボルト」だけを一直線に見据える。左足を高く振り上げ、しなやかな背筋から腕をしならせる美しい投擲フォーム——。
「——いっけぇぇぇぇ!!!」
シュオッ!!
手から離れたハサミは、風を切り裂きながら鋭い弧を描き、ノアの提示した完璧な軌道を突き進んだ。
ガキィィィィン!!!!
一分の狂いもなく、ハサミの重い柄が天井の緊急排気レバーを直撃して叩き落とす。次の瞬間、プシューッ!!と激しい蒸気音とともに安全弁が作動し、ガチャリと鉄格子のロックが跳ね上がって扉が開いた。
「今だ、出ろ!」
ふたりは脱兎のごとく温室の外へ転がり出た。直後、内部で「ガチャン!」とラチェットが元に戻る重厚な音が響き、蒸気圧の再充填に伴って再び鉄格子が固く閉ざされた。
「ゴホッ、ゴホッ……! はぁ……はぁ……! た、助かったぁ〜……!」
「顧問! ご無事ですか!?」
カーター巡査が駆け寄り、レストレード警部も「よくぞ脱出された!」と胸を撫で下ろす。
グレグソン刑事は
「バ、バカな……あの町娘がハサミの一撃でカラクリを解除しただと……!? だから顧問は彼女を連れてきたというのか……!?」
とガタガタ震えながら開いた口が塞がらない。
「はあぁ〜……死ぬかと思った……。ねえノア、凄かったでしょ私の腕前!」
アリスが息を整えながら、隣で一緒にしゃがみこむノアに得意げな笑顔を向けた。ノアは服についた埃を払うふりをしながらメガネをかけ直し、そっぽを向いた。
「……フン。僕の指示通りに動いた物理現象に過ぎない。君の手線(軌道)のブレは三ミリほど生じていた」
「もう。素直に褒められないの、あなたは!」
アリスは「心配して損したわ!」とプンプン怒りながら、起き上がって服の泥を払おうと立ち上がろうとした。
その、瞬間だった。
スッ、と伸ばされたノアの手が——。
ギュッ。
立ち上がろうとしたアリスのスカートの裾を、力強く掴んで離さなかった。
「……ん?」
アリスは動きを止め、驚いて見下ろした。ノアはアリスの裾をギュッと握りしめている。
「……ノア? どうしたの?」
ノアは少し不思議そうな表情をした後、握りしめた手にぐっと力を入れたまま、ムスッとした顔で不機嫌そうに明後日の方向を向いた。
「……軽率に立ち上がるな。君の足元に……犯人の重要証拠が残されている」
「え? 手がかり……?」
アリスが足元を見ると、ノアが掴んでいた裾のすぐ近くの芝生に、小さく千切れた「高級な黒い生地の繊維」と「見慣れない赤土」が落ちていた。
「……そうだ。僕が先に見つけた。勝手に動いて踏み荒らすな」
ノアはぶつぶつと理屈をこねくり回しながら、ゆっくりとアリスの裾から手を離した。アリスの顔を見る事は無かった。
「レストレード警部、カーター巡査」
ノアは冷淡に警察官たちを呼び寄せる。
「この繊維と赤土を回収しろ。犯人はロンドン市内の高級仕立て屋を利用しており、靴にこの特殊な赤土を付着させていた可能性がある」
「おい…鑑識は何をやっているんだ!直ちに捜査網を広げる!」
レストレード警部が素早く指示を出し、カーター巡査は「凄いです! 完璧な分析です!」と猛烈な勢いで帳面に筆を走らせる。グレグソン刑事は「むむむ……またしても先を越されるとは……」と悔しそうに唸った。
アリスはそんなノアの様子を見つめ、ふと、顎に手を当てて思案する。
(……もしかして、私を心配した? ……まさかねえ)
「ノア、やったね」
アリスはしゃがみ込むと、ノアの顔を覗き込んで、こっそり、倒れないかノアの顔色を確かめた。
「……見つめるな。顔色など変わっていない」
ノアはアリスの視線から顔を背け、シルクハットを目深にかぶり直しながら、ボソリと付け加えた。
「……帰ったら、鑑識の詰めの甘さを徹底的に追求する」
最後までお読みいただきありがとうございました。
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