50 蜘蛛の舞踏会事件 5
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舞踏会も終盤です。
お楽しみ下さい!
「……ふう、さすがに疲れたわ」
夜風の吹き抜けるバルコニーに出るなり、アリスは小さく息を吐いた。
「……僕も色々な意味で疲れた。なぜ貴婦人達は突然あんなにまとわりつくようになったのだ? 身動きがとれん……」
「……それは、ノアがいつもよりかっこいいからだよ」
「は? 別にいつもと違うところはない」
不満げに眼鏡の位置を直すノアに、アリスは「もう、そういうところよ」と呆れ混じりの溜息をついた。
「ノアの頭の中は方程式ばかりで、自分の顔の威力に無自覚すぎるの。あんな甘い顔で笑ってみせたら、社交界の令嬢たちが放っておくわけないじゃない」
「……甘い顔……?」
ノアは眉をひそめ、至極真面目な顔で自身の思考回路を検索し始めた。
「僕の表情筋の伸縮運動に異常が起きていたとでも言いたいのか? あれは単に、君の……運動力学的に完璧なステップと、その……楽しそうな様子が、脳内の予想数値を上回った結果の『計算エラー』に過ぎん」
「はいはい、計算ね」
理屈っぽい言い訳を並べ立てるノアに、アリスはくすりと笑う。そして、上目遣いにノアを見つめた。
「でも、私、今日、頑張ったよね? 完璧に、お嬢様できてた?」
少し、褒めてもらいたそうな顔。 そんなアリスの健気な瞳に見つめられ、ノアは小さく息を呑んだ。
「……ああ。君の仕草も、表情も、ダンスも完璧だった。……頑張ったな」
「っ……」
ノアにまっすぐ褒められ、アリスは少し頬を赤くしながら満面の笑みを見せる。 だが、その眩しすぎる笑顔を見た途端、ノアはふいっと顔を逸らし、押し黙ってしまった。
「……? ノア?」
アリスが不思議そうに覗き込むと、ノアは気まずそうに口ごもる。
「そ、」
「? そ?」
「それに、…………………………君が一番綺麗だ」
ポツリとこぼれ落ちた、意外すぎる言葉。 アリスが目を丸くして固まっていると、耐えきれなくなったノアが声を荒らげた。
「〜〜〜ッ!! こ、これでいいか!」
そっぽを向いたまま、耳の先まで真っ赤にして吐き捨てるノア。 不器用すぎる最高の褒め言葉に、アリスの胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……うん。うん、ありがとうノア。嬉しい」
アリスが心底嬉しそうに微笑むと、夜風が栗色の髪とアイスブルーのドレスを優しく揺らした。先ほどまでの大広間の熱気が嘘のように、月光に照らされたバルコニーには二人だけの甘い静けさが満ちている。
ノアは再びアリスへ視線の焦点を合わせようとして——不意に言葉を止め、その眼差しをすっと落とした。
夜風を浴びて涼むアリスの右手。——先ほど、モーリス・ヴェインの手が触れていた場所だ。
「……アリス」
「ん? どうしたの、ノア——」
振り返ったアリスの手首を、ノアは容赦のない力で掴み寄せた。 そしてポケットから再びシルクのハンカチを取り出すと、先ほど舞踏会の中央でやったように、アリスの手の甲から指先にかけて、擦り切らんばかりの勢いで何度も執拗に拭い始めた。
「ちょ、ちょっと、ノア!? さっきも散々拭いたじゃない! 痛くはないけど、もう何もないわよ?」 「……足りない」
低く掠れた声。先ほどまで真っ赤になって照れていたはずのノアの碧眼には、いまや冷たく暗い情念が渦巻いていた。
「あんな男の触れた痕跡が、君の皮膚に残っていると思うだけで……脳内の全計算が狂う。非常に不快だ。……排除しなければ気が済まない」
手首を掴む指の強さ。ハンカチを動かす手の微かな震え。 普通ならば身の危険すら感じるほどの執着と凄惨な圧力。だが、アリスの胸に湧き上がったのは、恐怖ではなく胸を締め付けられるような切なさだった。
(……どうしてこんなにも、私を失うことを恐れているの……?)
万物の構造を瞬時に解き明かす超絶な頭脳。その完璧すぎる目のせいで、きっと幼い頃から周りの誰にも理解されず、孤独の檻の中に閉じ込められてきたはずだ。 世界で初めて心を通わせた存在を誰かに奪われるかもしれないという恐怖が、この天才の理性をここまで苛み、狂わせている。
(……この人は、こんなに冷たい言葉ばかり吐きながら……泣きそうなほど必死なんだわ)
「ノア……」
アリスは拭われる手に抗うのをやめ、空いている方の手をそっとノアの頬に添えた。 ひんやりとした夜風に晒されていたはずなのに、ノアの肌は熱く火照り、小さく震えている。
「……私、ノアのそばにいるわ。誰のところにも行かない。あの人の『歯車』にもならないって、さっきちゃんと言ったでしょ?」
優しく包み込むようなアリスの言葉と体温。 その瞬間、過熱し暴走していたノアの頭脳が、ピタリと計算を停止させ、その手が固まった。
「……っ」
ノアはハンカチを握りしめたまま、吸い寄せられるようにアリスの腰へ手を回すと、逃げ場を無くすように深く抱き寄せ、その首元へ顔を埋めた。 体重のすべてを預けるようにアリスを抱きしめ、細い肩に額を強く押し当てる。
「……分かっている……。だが、ダメだ」
耳元で漏らされる、熱く荒い吐息。アリスの服の裾をギュッと掴むノアの指先には、すがりつく幼子のような無防備さがあった。
「僕以外の男を見るな。……僕の視界から外れるな。君が僕を置いてどこかへ行くなど……そんな事象、僕の方程式には存在しない……っ」
言葉は強がりと理屈ばかりなのに、肌越しに伝わる激しい鼓動と引きちぎらんばかりの腕の強さが、ノアの隠しきれない「重すぎる愛」を雄弁に物語っている。
アリスはふっと柔らかく目を細めると、背中に回されたノアの腕へ優しく手を添え返し、その頭をよしよしとなだめるように撫でた。
(……大丈夫よ。あなたが本当に安心できるまで……何度だって教え込んであげるから)
「はいはい。だから私は、ずっとノアの隣にいるって言ってるでしょ、不器用な顧問様」
月明かりの下、独占欲を隠そうともしない不器用な天才と、その深い傷跡ごと丸ごと抱え込む健気な淑女の、甘く切ない時間が静かに流れていった。
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