48 蜘蛛の舞踏会事件 3
曲が終わり、会場全体を揺るがすような拍手と歓声が沸き起こる。
しかし余韻に浸る間もなく、フロアの端へと引き揚げようとした二人を、悪夢のような人垣が遮った。
「まあ、カーライル卿! なんて素晴らしいダンスでしょう!」
「ぜひ、私とも次の曲を踊っていただけませんの!?」
ノアの奇跡的な微笑みに完全に射抜かれた貴婦人たちが、我先にと押し寄せてきたのだ。
スコットランドヤードが誇る天才の頭脳も、この想定外の事態には対処できず、ノアはあっという間に黄色い悲鳴の人垣の中へと埋もれてしまう。
「っ……く……! 離れろ、邪魔だ……!」
強引に押し込められ、アリスとの距離が開いていく。
一方、フロアに取り残されたアリスのもとにも、ファーストヴァルツで彼女の美しさに魅了された男性貴族たちが一斉に群がっていた。
「あの方のダンスカード、ファーストヴァルツ以外は真っ白(無記名)だぞ!」
「なんと! 可憐な淑女よ、ぜひ私と二曲目を——」
「え、ええと……!?」
貴族の知り合いがおらず、ノアとの予約以外は空欄だったアリスのカードを狙い、男たちの手が我先にと伸びる。困惑するアリスの背中に、冷たい悪寒が走ったのはその時だった。
人垣を優雅に割って現れたのは、透き通るようなプラチナシルバーの髪と琥珀色の瞳を持つ美青年——ヴァルモント子爵モーリス・ヴェイン。
つい先ほど、イーストエンドの廃工場で暗号とカラクリを仕掛け、ノアを追い詰めようとした黒幕その人だった。
モーリスは完璧な貴公子の笑みを浮かべ、白いシルクの手袋をした手をすっと差し出す。
「お困りですか、可憐な淑女。カードが空いているのでしたら……この私が、次の曲の栄誉をいただいても?」
(この人……! あんな事件を起こしておいて、よくも堂々と……!)
アリスが身構え、鋭い拒絶の視線を向けた瞬間。モーリスはすっと顔を近づけ、周囲には聞こえない低く甘やかな声で耳元に囁いた。
「——君と踊りたくて戻って来たのに……、断られたら何するかわからないなぁ」
アリスの息が止まる。
琥珀色の瞳の奥に揺らめく、絶対的な狂気と余裕。社交界というこの公の場に、彼がどんな罠や悪意を忍ばせているか分からない。アリスはぎゅっと拳を握りしめ、溢れる怒りを飲み込んだ。
「……私と、踊って頂けますか?」
モーリスの白々しい問いかけに、アリスは静かに、だがはっきりと頷いてみせた。
「なっ……!?」
遠くで貴婦人たちを押し払おうとしていたノアの顔色が、一瞬で蒼白に染まる。ヴィクトリアの傍らで状況を見張っていたオリバーもまた目を見張り、即座にノアと共に踏み出そうとした。
だが——アリスはモーリスの手を取ったまま、二人へ向けてまっすぐに強い視線を送った。
(来ちゃダメ……! 大丈夫だから!)
強い決意を込めた目線に、ノアの足がピタリと止まる。
「くっ……っ!!」
アリスを人質に取られたも同然の状況。むやみに近づけばアリスに危害が及ぶかもしれない。ノアの脳内は激怒と焦燥で焼き切れそうになり、眼鏡の奥の碧眼には凄惨な殺気と激重な執着が渦巻いていた。
握りしめた拳の爪が手のひらに食い込むほど力みながら、ノアはただ二人を凝視するしかなかった。




