46 蜘蛛の舞踏会事件 1
いつもありがとうございます!
さあ、舞踏会の開幕です!
お楽しみ下さい!
「ノア様のお着替えをお持ちしましたが……正解でございましたな」
アリスとノアがいる部屋に入るなり、老執事バロウズは事もなげに言ってみせた。その手には、寸分の狂いもなく手入れされたノアの予備の礼装が握られている。
「……バロウズ。相変わらず仕事が早すぎるぞ」
ボロボロの衣服のまま、ノアは呆然と呟いた。 直立不動のバロウズの横を、荒い息を吐いたクラリッサとエレナが駆け抜けてくる。パーティの開始時刻を少しでも遅らせようと、会場で奮闘してきた直後なのだろう。
「アリス嬢! ノア様、無事で良かった……けれど、これは……」
泥と煤にまみれた二人の姿を目にした瞬間、クラリッサは絶句した。だが次の瞬間、ノアの妹エレナが瞳を輝かせて声を張り上げる。
「おねえさま! 兄様を助けて下さってありがとうございます! さすがですわ、本当にかっこいいです!」
「……綺麗なドレス、汚してしまってごめんなさい……」
興奮するエレナの脇で、アリスは申し訳なさそうに身を縮めた。クラリッサから借りた大切なドレスは裾が破れ、見る影もない。
「いや、僕のせいだ。僕が弁償する」
「ドレスの一着や二着でつべこべ言う気はありません。こんなこともあろうかと予備を用意しておりますの。時間がありません、急ぎますわよ!」
ノアの言葉を即座に遮り、クラリッサがパチンと優雅に指を鳴らした。影から滑らかに現れたチェスター家のメイドたちが、アリスの手を引いて別室へと連れ去っていく。
「ノア様も急いで!」
「……さすが、天下に名を轟かすクラリッサ・チェスター……」
疾風のように去っていく彼女にノアが感心した、その時だった。
「兄様! 感心してる場合じゃありませんわ! バロウズ、お急ぎになって!」
「かしこまりました、お嬢様」
バサァッ!と音を立てて、ノアのボロボロのシャツがエレナの手によって容赦なく引き剥がされた。
「なっ――?! エレナ! はしたな……」
「お説教は後で伺いますわ!」
問答無用で兄を脱がしていくエレナの手際に、バロウズは何の疑問も挟まない。長年の慣れを感じさせる鮮やかな手つきで、瞬く間にノアの身支度を整えていった。
◇
「……おねえさま! よろしいかしら!?」
身支度を終えたノアを引きずるようにして、エレナがアリスの控室のドアを激しく叩く。
「ど、どうぞ!」
アリスの少し上ずった声に応じ、二人が足を踏み入れた。 次の瞬間、ノアは思考を完全に停止させた。
そこに佇んでいたのは、ノア自身の美しい碧眼を思わせる「澄んだ薄いブルー」の最高級シルクドレスを纏ったアリスだった。ふわふわとした明るい栗色の髪とヘーゼルグリーンの瞳に、透明感のあるアイスブルーが驚くほど鮮やかに映えている。
素材を生かした繊細な化粧と、美しく編み込まれた髪。下町の少女の面影は消え去り、そこには息を呑むほど可憐で気品あふれる貴婦人がいた。
「わあ……! おねえさま! すごく綺麗! 兄様の瞳の色ですわね、とっても素敵!」
「あ、ありがとう……エレナちゃん」
照れて頬を染めるアリス。エレナはジト目で立ち尽くす兄を振り返った。
「ちょっと、兄様! 固まってないで何か気の利いたことの一つでも言ったらどうですの!?」
「……あ……」
口を開くものの、いつもの知的な毒舌も憎まれ口も出てこない。ノアの脳内は完全にオーバーヒートを起こしていた。
「ど、どうかな……? 大丈夫かしら……? 少しはノアに恥じないご令嬢になれてる……?」
素顔で社交界に立つ不安と、かつて仮面舞踏会でノアの周囲に群がっていた令嬢たちの記憶が蘇り、アリスは身を小さくして上目遣いにノアを見る。
その気弱な言葉に、ノアはハッと正気に戻った。
きゅっと口を結ぶと、長い足で一気に距離を詰め、アリスの華奢な手をぎゅっと力強く握りしめる。そして床を見つめたまま一言。
「……君を、恥だなんて思ったことは一度もない」
絞り出すような、小さな声だった。
「え……? ノア、声が小さすぎてよく聞こえなかったわ。もう一度言って?」
「……うるさい。いいから僕の手を離すな」
「わっ」
照れ隠しを隠しきれない強さで手を引かれ、アリスは思わずノアの背中を追いかけて歩き出す。
「んもう……大事なところでヘタレなんですのね、兄様は」
取り残されたエレナの呆れ交じりの呟きだけが、静かな室内に残された。
◇
パーティ会場の重厚な扉の前。 司会者がアリスの名前を読み上げれば入場する手筈になっている。エスコートするノアの手に、アリスの極度の緊張が嫌というほど伝わってきていた。
(どうしよう……ノアの瞳と同じ色のドレス、すごく素敵だけど……私、ちゃんと着こなせてるかな。素顔の私じゃ、ノアの隣に立つには不釣り合いだって思われるかも……)
握りしめた手袋の下で冷や汗が滲む。
「……アリス」
「ノア! めちゃくちゃ緊張してきたわ! 転んだらどうしよう、クラリッサ様やチェスター家の皆様に顔向けできない……!!」
言葉をかけようとするノアを遮り、アリスはパニックのまま捲し立てる。
「……だいじ」
「それに、今日はあの時と違って仮面がないの! みんなに顔を見られちゃう……わ、私ほんとに、だいじょんむ!?」
おしゃべりが止まらないアリスの唇を、手袋を外したノアの温かく滑らかな人差し指がそっと塞いだ。
「しーー……」
ノアの深い碧眼が、至近距離でアリスを射抜く。息を呑み、アリスはこくこくと何度も頷いた。
「……いつも通りの君でいればいい。この僕が君を選んだんだ。自信満々で行ってやれ」
指を離しながら、ノアはアリスの目をまっすぐに見つめた。言葉遣いこそツンと突っぱねているが、その声は驚くほど優しい。
「何も恐れることはない。……僕がずっと隣にいる」
その言葉が、すーっと胸の奥深くまで染み渡っていく。
(――ノアが、私を選んでくれた。私の隣には、ノアがいる)
肩からすっと無駄な力が抜けていった。アリスは背筋を伸ばし、力強い輝きを瞳に取り戻す。
「……ありがとう、ノア。……そうね、何も怖くないわ。ノアが私を選んでくれて、隣にいてくれるんだもの!」
「……それでこそ、アリスだ」
アリスは迷いを吹っ切るように、まっすぐ会場の扉を見つめていた。 だから彼女は知る由もなかった。いつもの冷徹な知性を削ぎ落とし、ただ愛おしそうに自分を見つめるノアの、見たこともないほど甘く優しい眼差しを。
重厚な扉の向こうから、誇らしげなアナウンスが響き渡る。 二人はしっかりと腕を組み、光に満ちた社交界の初陣へと一歩を踏み出した。
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