42 カーライル卿失踪事件 4
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誘拐されたノア。どうなってしまうのでしょうか?!
お楽しみ下さい!
その頃——街の喧騒から完全に切り離された密室で、ノアは呼吸の仕方を忘れたかのように胸を深く上下させていた。
精密な歯車と鋼鉄の連動で組み上げられたカラクリ拘束具。それが両手首を噛みちぎらんばかりの力で壁に固定されている。
だが、彼を地獄の底へ突き落としていたのは、物理的な拘束ではなかった。
(……くそ……っ、ただの麻薬じゃない……体温の急速な上昇、心拍数の倍化……媚薬の類か……!)
血液を駆け巡る猛烈な熱が、脳の「構造視」を激しく暴走させる。世界が光と数値の濁流と化し、脳裏を焼き尽くしていく。激しい動悸と喉を灼く渇き。
理性が溶けて消えそうになる恐怖の中、ノアは拘束された手のひらに爪を深々と突き立てた。ブチ、と皮膚が裂け、鮮血が伝う。その鋭烈な激痛だけが、崩壊しかけた理性を現実に繋ぎ止める唯一の命綱だった。
その目と鼻の先で、無傷のビクトリア・モンゴメリーが立ち尽くしている。心配そうに、けれど己の魅力が最大限に際立つ角度を巧みに計算して。
「被害者」のフリをしつつも、密室で二人きりになった今、その瞳の奥には歪んだ優越感が渦巻いていた。
(ふふ……お可哀想なノア様。あの平民の花売り女などを正妻に迎えようとするから、こんな目に遭うのですわ。私を選んでいれば、今頃モンゴメリー邸の華やかな舞踏会でファースト・ヴァルツを踊っていたものを)
ビクトリアは怯える小鳥を装い、優雅にノアへと近づいた。汗に濡れ、荒い息を吐きながら痛みに耐える男の姿は、冷徹で無機質な普段の彼からは想像もつかないほど生々しく、欲望を激しく刺激する。
「まあ……そんなに汗をかいて……おいたわしい。少し楽にして差し上げますわ、ノア様」
甘い香水の匂いを漂わせ、ビクトリアの手がノアの胸元へ伸びる。 冷たい指先がボタンをひとつ、またひとつと外していく。拘束され、激痛に耐えるノアの肌に、女の指先が触れた。
「……ッ!?」
その瞬間。強い拒絶感と、媚薬が強制的に引き起こす過敏な熱反応が衝突し、ノアの背骨に激しい衝撃が走った。弾かれたようにノアの身体が大きく跳ね起きる。
(まあ……指一本触れただけで、そんなに跳ねるなんて……)
ビクトリアは陶酔したように目を細めた。プライドの高いカーライル侯爵家の天才令息が、自分の手の中で屈辱に身を悶えさせている。その事実が、彼女の選民思想と支配欲を満たしていく。
「もう……限界なのでしょう? 無理をなさらないで。私を頼ってくださいな……ここでは二人きりなのですから」
身を乗り出し、開け放たれたノアの胸元にすがりつくように顔を近づけた。紅を引いた唇が、ノアの首筋へ寄っていく。
その時だった。
「……触るな……っ!!!!」
密室の空気を切り裂いたのは、人間が発したとは思えぬ、血を吐くような絶叫だった。
漆黒の前髪の隙間から覗く碧眼が、冷酷な殺意の光を宿してビクトリアを射抜く。眼鏡の奥のその瞳は世界を拒絶し、目の前の存在を「忌むべき不浄の肉塊」としてしか捉えていなかった。
「僕の視界に……入るな……っ! 一ミリでも近づいてみろ……即座に自らの舌を噛み切って、お前の目の前で死んでやる……っ!!」
声は震えていた。だが、その瞳にあるのは本気の狂気と、一切の妥協のない拒絶。 触れるな。その身体で僕を汚すな。僕を構成する世界にノイズが入ることを全存在が拒絶している——言葉にならぬ叫びが、鋭利な刃となってビクトリアの皮膚を切り刻んだ。
一瞬、ビクトリアは息を飲み、圧倒的な気迫に圧されて後退りかけた。
しかし、屈辱とプライドがすぐに彼女の正気を塗りつぶす。息も絶え絶えになりながら自分を睨みつける男の姿に、彼女は妖艶な笑みを戻し、さらに距離を詰めようと爪を立てた。
「死ぬ? そんな強がりをおっしゃって……身体はこんなに熱いではありませんか——」
ノアは強く目を閉じ、歯が砕けるほど噛み締めた。
(アリス……っ)
脳裏をよぎるのは、冷たい数値の世界で唯一、自分を「人間」として包み込んでくれたあの温かな光。額を合わせ、脳の過熱を止めてくれた健気な婚約者の温度。
(……アリス……ッ!)
「邪魔だ」「勝手にしろ」と突き放し、素直に愛を伝えられなかった己の幼さを呪う。相棒という枠組みに逃げ、踏み込めなかった後悔が胸を刺す。理性が溶け落ちる暗闇の中で必死に叫んでいたのは、間違いなく愛するアリスの名だった。
——そしてその時、分厚い密室の扉の向こうから、破壊の重低音が轟いた。
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