40 カーライル卿失踪事件 2
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アリスの社交デビューの当日、何も起こらないわけがない!
お楽しみ下さい!
ロンドンの黄昏は、いつも石畳の隙間から這い上がる湿った霧と共に訪れる。街灯のガス灯がぼんやりと橙色の光を灯し始める頃、チェスター伯爵邸の控え室には重苦しい緊張感が漂っていた。
アリスは姿見の前に立ち、浅い息を繰り返していた。胸元を締め上げる鯨骨のコルセットが肋骨を容赦なく圧迫し、呼吸するたびに繊細なシルクのドレスがかすかに揺れる。
「もう少し耐えてちょうだい、アリス嬢」
今日アリスが社交デビューする舞踏会を主催する、チェスター伯爵家の長女クラリッサ・チェスター。優雅な笑みをたたえた彼女の横で、メイドがアリスのコルセットの紐を限界まで引き絞った。
(ひぃ〜!!)
苦しさで視界が揺れたが、アリスは唇を噛み締めて耐えた。
「頑張ってください、アリスおねえさま! とってもお綺麗です!」
ノアの妹エレナ・カーライルの眩しいほどの笑顔と応援に、アリスは苦しい息の下でひらひらと手を振る。結い上げられた栗色の髪に、上品なヘーゼルグリーンの瞳。鏡の中に映るのは、かつて街の花屋で泥に塗れて働いていた頃の自分ではない。婚約者となったノアの隣に胸を張って立つため、血の滲むような努力を重ねてきた結実だった。
(ノアは……どんな顔をするだろう)
世界の全てが数式と構造データに見えるという彼の異常な視界の中で、自分は今、少しでも美しく映るだろうか。
『君がどんな布切れを纏おうが僕の構造視には関係ない』
きっと眼鏡の奥からそんな冷ややかな暴言が返ってくるに違いない。けれど、ノアはなんだかんだ言って優しいのだ。
しかし、約束の時刻を1時間過ぎても、ノアは現れなかった。
スコットランドヤードの特別顧問として幾多の難事件を解き明かしてきたノエル・カーライルが、約束を破るなどあり得ない。彼の脳内にある精密な時計が狂うはずがないのだ。老執事バロウズからの連絡も途絶えている。
アリスの不安が確信に変わっていく中、静寂を破って控え室のドアが重々しくノックされた。
「クラリッサお嬢様、失礼致します」
「どうしたの? カーライル卿から連絡は?」
「いえ……ございません。ただ、招待客リストを検分しておりましたところ、未到着の方が一名おられます」
「……どなたかしら」
「モンゴメリー伯爵令嬢、ビクトリア様でございます」
その名を聞いた瞬間、胸の奥で嫌なざわめきが急速に大きな渦を巻き始めた。
「僕がノアのフラットを見てこよう」
勢いよく部屋に駆け込んできたのは、クラリッサの弟であり内務省のエリート官僚、オリバー・チェスターだった。いつも洗練された物腰の彼も、さすがに焦りを隠しきれず髪を少し乱している。
アリスは迷わず、重厚なドレスの裾を掴んで立ち上がった。
「私も行くわ、オリバー様!」
「な、何を言っているの、アリス! 今から出かければ舞踏会に間に合わなくなっちゃうわよ!」
取り乱す母マリアを制したのは、クラリッサだった。優雅な笑みの裏に凄絶な圧を秘めた彼女は、アリスの決意に満ちた瞳をじっと見つめると、静かに頷いた。
「お行きなさい。お披露目パーティで主役が消えるなど大スキャンダルですが……会場は私が仕切って時間を稼ぎます。でも長くは持ちませんわよ。……ノア様を早く連れて来てくださいね、心強い助手さん?」
「私も時間稼ぎをお手伝いします! お任せください……兄様を、よろしくお願いします!」
力強く小拳を握るエレナに見送られ、アリスとオリバーは控え室を飛び出した。廊下を駆け抜け、冷たい夜気が満ちる屋敷の車寄せへ向かう。
馬車を手配するためオリバーが駆け去り、一人残されたアリスの前に、すっと長い影が落ちた。
銀の懐中時計を指先で弄びながら姿を現したのは、プラチナシルバーの髪にアンバーの瞳を持つ、驚くほど整った容姿の青年だった。街灯の光を受けて、彼の儚げなシルエットが怪しく浮かび上がる。
(……見たことがない方。こんな目立つ人、一度会ったら忘れないはず。招待客かしら……)
「お困りのようですね、可憐な淑女。こんなところで顔色を悪くして……」
「いえ、あの……」
「ああ、名乗りもせず失礼いたしました。私はヴェイン子爵モーリス。時計技師をしております。……ノアはお揃いではないのですか、アリス嬢」
「え?! あ、あの……お会いしたことがありましたか……?」
「あなたとは初対面ですよ、レディ。ノアから聞いていた通りの可愛らしい方でしたので、すぐに分かりました」
「ノアの……ご友人ですか!? 実は、ノアがまだ来ていなくて……何か事件に巻き込まれたのかもしれません」
「……なるほど、そういうことでしたか」
アリスの表情に走った切迫した色を受け止め、モーリスは表情を和らげると深く頷いた。
「顔を上げてください、アリス嬢。私のことはモーリスとお呼びいただいて構いません。私とノエルは、機械や構造の趣味で以前から交流がありましてね。彼からよく話を聞かされていたのですよ。『私の計算を狂わせる、とびきり眩しい花屋の少女がいる』と」
まさかあの不愛想なノアが周りに自分のことを話しているとは思わず、アリスはヘーゼルグリーンの目を丸くする。
「あんなに不器用で素直になれない男が、初めて誰かを慈しむように語るのを聞いて驚いたものです。だからこそ、あなたのことは他人と思えない。……そんな友人になにかあったとなれば、黙ってはいられません」
モーリスは胸元から白いシルクの手袋を取り出し、寸分の狂いもない動作で滑らかに手にはめ直した。
「あの『歩く精密時計』が遅刻するなど異常事態だ。もし現場に複雑な機械仕掛けやカラクリの類が残されていたなら、時計技師である私の知識が役に立つはず。それに、可憐なあなたをこの危険な夜の街へ向かわせるわけにはいきません。私の馬車を使いましょう。最速の馬を仕立ててあります」
そこへ「馬車の準備ができた!」と息を切らせて駆け戻ってきたオリバーだったが、モーリスの申し出と彼の手配した最速の馬車を目にし、「ヴェイン子爵! ありがたい、助かります!」と深い感謝と共に頷いた。
「気に病むことはありませんよ。私はただ、友人の大切な夜が狂わされるのが許せないだけです」
微笑みながら黒塗りの馬車のドアを開くモーリスの背後で、ロンドンの夜を告げるビッグベンの鐘が重々しく鳴り響き、アリスたちを乗せた馬車は濃霧の煙る闇の中へと走り出した。
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