39 カーライル卿失踪事件 1
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「いいですかアリス嬢。扇子とは単なる涼をとる道具ではなく、淑女が言葉にできない想いを伝える『秘密の言語』なのです」
チェスター伯爵邸のサロン。クラリッサの優雅で厳しい指導のもと、アリスは手渡された絹の扇子を必死に握りしめていた。いよいよ間近に迫った社交界デビュー。ノアと結婚する為には避けられない道だ。
花屋の娘であるアリスにとって、このマナー講座はまさに試練の連続だった。だが持ち前の身体能力と素直さも手伝い、その扇子さばきや立ち振る舞いは、講師も驚くほどの上達を見せている。
「たとえば……こうして扇子を半開きにして右の頬を撫でる動作。これは『あなたを慕っています』という意味になります」
「なるほど……」
「そして、扇子を細く閉じてそっと自分の胸元に当てる動作。これは『誰にも知られてはならない秘密があります』……つまり、救援や密会を求める合図ですわ」
クラリッサの説明を聞きながら、アリスは真剣な面持ちで反復練習を始めた。胸元にそっと閉じた扇子を当て、そのまま右の頬へ優雅に滑らせる。
「『秘密があります』から『あなたを慕っています』……ふふ、なんだか劇のワンシーンみたいですね!」
アリスがふっと柔らかく微笑んだ、まさにその時だった。
バサリ、と書類が床に落ちる音が響いた。サロンへ入ってきたノアが手にしていた書類を盛大に落とし、その場に棒立ちになっている。
「……その、扇子言語など覚える必要はない」
「あら、淑女たるもの、様々な知識を得ておくべきですわ」
ノアが伊達眼鏡の奥で拳を震わせ、睨みつけるのをどこ吹く風でクラリッサが返す。
「……君が誰かに『秘密の想い』を伝えたり、救援を乞うようなシチュエーションなど存在しない。僕という婚約者がいる以上、そんな暗号を使う機会も相手も永久にないからだ」
「まあ、実際に使うかどうかは置いておくとして、知識として持っておく分にはいいんじゃないか?」
ノアの後ろから入ってきたオリバーが、床に散らばった書類を拾い上げながら苦笑交じりに姉に賛同した。
「……この食えない姉弟め……」
ノアは不機嫌さを隠そうともせず苦々しく呟くと、吐き出すように息をついてソファへドカッと腰掛けた。
マナーレッスンがひと段落すると、次は社交界デビューに向けた最大の書類手続き——エスコート役の申請と、当日のダンスカードの準備である。
「アリス嬢、これが貴方のエスコートカードとダンスカードですわ。エスコート役はもちろんノア様で申請を出しておきましたからね」
クラリッサが差し出したのは、繊細な金箔が施された小ぶりな羊皮紙のカードだった。舞踏会で誰と何曲目を踊るかを記録する、社交界の厳格なルールだ。
「さあノア様、婚約者として最初の『ファースト・ヴァルツ』と最後の『ラスト・ダンス』に貴方の名前を書き込んで下さいな」
クラリッサにカードを渡されたノアは、完璧に感情を覆い隠した顔のままペンを走らせ始めた。しかし、その手元を後ろから覗き込んだオリバーが思わず声を上げた。
「ちょ、ちょっと待て!? おい…1曲目から最後の曲まで、全部『ノエル・カーライル』って書いてあるぞ!」
「何か問題でもあるのか。僕以外の男と踊る必要性が存在しない」
「大ありだ……! ダンスカードを全部同じ人間で埋めるなんてマナー違反だぞ!……お前、分かっててやってるだろう?!」
当然のようにカードを埋め尽くそうとするノアの手から、オリバーは慌ててペンを取り上げた。クラリッサは「あらあら」と扇子で口元を隠して楽しそうに微笑み、アリスは「あはは……」と苦笑いするしかなかった。ノアは納得のいかない様子で、不満げに眼鏡の位置をクイと直す。
一通りの準備と手続きが終わり、サロン横の来客室ではノアとアリスが一息ついていた。付き人としてついてきた老執事のバロウズが、恭しくお辞儀をしながら淹れたての芳醇な紅茶と焼き菓子を運んでくる。
「アリス様、ノア様、お疲れ様でございました。バロウズ特製のブレンドティーでございます」
「わあ、ありがとう、バロウズさん!」
ほっと一息つき、温かい紅茶に口をつけたアリスは、先ほどのマナー講座で習った内容を思い返しながら満足そうに目を輝かせた。
「それにしても、扇子の暗号ってすごく面白いわ! ねえノア、私たちも二人だけの暗号を作らない? 事件現場で急に連絡が必要になるかもしれないでしょう?」
特別顧問として危険な現場に立ち会うノアの「相棒」として、少しでも役に立ちたいという純粋な提案だった。だが、ノアはティーカップを傾け、視線すら向けずに素っ気なく言い捨てた。
「……必要ない。自分用の暗号なら既に構築済みだ」
「えっ!? そうだったの?」
そういえば、ノアが現場で手帳に書き込んでいるメモには、時折見たこともない複雑な図形が並んでいたことを思い出す。
「……あ、そういえばノア、手帳に不思議な記号を書いていることがあったわね」
「『踊る人形』の構造を独自に簡略化し、暗号化したものだ。……まあ、君には少々難解すぎるだろうがな」
ノアは内ポケットから黒革の手帳を取り出し、パタリと開いて見せた。そこにびっしりと並んでいたのは、常人には到底解読できそうにない、幾何学模様と歪な記号の列だった。
「う……確かに、私がいざという時に読んだり書いたりするには難しそうね……」
アリスは少し肩を落とし、しょんぼりと首をすくめた。
「そっか……特別顧問と助手の二人だけにしか通じない暗号があったら、なんだか本当の相棒みたいで便利かなって思ったんだけど……」
『二人だけ』という言葉を聞いた瞬間、ノアの動作が一瞬だけピタリと止まった。彼は無言のまま手帳をパタンと閉じると、持ち上げたティーカップを静かにソーサーへ戻した。
「……では、緊急時に咄嗟に使用できる『簡略形』を新たに定義するのはどうだ」
「えっ、 いいの!?」
ぱっと顔を上げたアリスの瞳が、一瞬で宝石のように輝く。
「……ああ。例えば、僕たちが普段から着用している『手袋』だ。手袋の置き方、あるいは特定の指の折り方に意味を持たせる。落とし物に見せかけて現場に残せば、第三者に悟られることなく状況を共有できる」
「す、すごい! ノア、やっぱり天才ね! それ、さっそく考えましょう!」
嬉しさに頬をぽっと紅潮させ、身を乗り出してにっこりと満面の笑みを向けるアリス。二人の距離がぐっと縮まる。
ノアはすっと視線を真横へ逸らし、素っ気ないトーンのまま言葉を続けた。
「……フン。まあ、君にも一瞬で理解できる程度に、極限まで単純化してやる」
「もう! なんで急に上から目線なのよ!」
ぷくっと頬を膨らませるアリスの横で、ノアは顔をそむけたまま、淡々と手袋の「指の角度」について説明を始めた。
何を考えているのか相変わらず読めないようでいて、実はこの上なく扱いやすい男。二人だけの「秘密の通信規約」は、バロウズの淹れた紅茶の香気の中で、静かに完成したのだった。
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