33 スコットランドヤード特別顧問の降伏 3
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ノアのデレはいかがでしょうか?
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「じゃあ、僕がカーライルを出る。僕には兄がいるから問題ない」
「?!……だっ、ダメよ、そんなこと! ノアが社交界にいられなくなっちゃうでしょ? 私にだってそれくらいわかるよ! 絶対ダメ!」
アリスは本気で怒り、眉をキュッと寄せてノアを強く睨みつけた。
彼女の言葉に、ノアは驚いたように青い瞳を何度も瞬かせる。世界を数式や幾何学として捉える彼の脳内計算機が、「彼女の純粋な怒り」という予想外の変数に直面し、完全に停止したのだ。
やがて彼はふっと長い睫毛を伏せ、低く落ち着いた声で思考の軌道を修正した。
「……では、僕がカーライルにいたまま、君を対等な立場まで引き上げる」
「そ、そんなことできるの……?」
「いくつか……方法はある。ただ、それは……」
ノアはわずかに言葉を濁した。いつもなら結論から冷徹に言い放つはずの口唇が、アリスを不安にさせまいと慎重に、そして不器用なほど優しく言葉を選び取る。
「君に貴族になってもらうということだ。学んでもらわなければならないこともたくさんある。……煩わしいことも」
言葉の裏にある「君に苦労をかけてしまう」という葛藤を、アリスは黙って受け止めた。
するとノアはそっと手を伸ばし、アリスの柔らかい髪を愛おしそうに撫でた。赤く染まった耳たぶを隠そうともせず、恥ずかしさを必死に堪えながら、まっすぐにアリスの瞳を覗き込む。
「僕が全身全霊をかけて守る。……この目は、今後君のために使う。だから……そ、そばにいてくれるか?」
澄み渡る夜空のように深く、けれど熱を帯びた青い瞳。世界の本質を見通してきたその双眸がいま、世界でただ一人、アリスのことだけを映し出している。
アリスの胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように熱くなった。
「……私、ノアのことを好きになった時に、いろんな覚悟をしたの。ノアに好きになってもらえなくても、助手としてそばにいられたらって……」
「……っ」
キュッと固く口を結んだノアの胸を、激しい歓喜と、それを塗りつぶすほどの強い罪悪感が突き刺さった。
自分の曖昧な態度が、言葉の冷たさが、どれほど彼女を傷つけていたのか。感情を排した「効率的な関係」と引き換えに、彼女の健気な愛に甘えていた己の愚かさに、ノアは噛み締めた唇から血が滲む思いだった。
ノアはアリスの髪から手を下ろすと、その白く小さな手を、壊れ物を扱うように両手で包み込んだ。
「……君だけだ。特別な人は……」
喉を震わせ、掠れた声で呟く。感謝と、謝罪と、二度と彼女を一人にさせないという生涯の誓いを込め、アリスの温かい手の甲へ吸い寄せられるように唇を押し当てた。
「っ……!」
普段のノアからは想像もつかない情熱的な仕草に、アリスの体温が一気に跳ね上がる。頬から耳の先まで熟した苺のように赤く染まり、息を吸うことすら忘れて硬直した。
ほんの数秒、愛おしい感触を確かめるようにして離れたノアだったが、我に返った瞬間に怒涛の羞恥心が押し寄せたらしい。視線を派手に泳がせ、不自然すぎる動作で「ゴホン」と大きな咳払いをしてみせた。
「……ち、誓いは、もっと、その……雰囲気のある場所でさせてくれ……」
アリスはハッとして周囲を見回した。
頭上に広がるのは、薄暗く湿ったロンドンの空気。立ち並ぶ煉瓦造りの壁と、石畳に転がる木箱。ここはスコットランドヤードから路地を一本入った、ノアのフラット(アパート)の裏手に過ぎない。
「そっ、そうよね! た、楽しみにしてるわ!」
あまりの落差に、アリスも慌てて普通を装い、熱を持った自分の頬をぽんぽんと叩いて冷まそうとする。ノアは弾かれたようにアリスの手を離すと、露骨にそっぽを向いた。
「……バロウズが、きっと紅茶を淹れている。戻ろう」
「う、うん!」
並んで薄暗い路地裏を抜け、自宅兼事務所へと続く階段を上る二人。先を歩くノアの耳たぶは真っ赤なままで、背筋をピンと伸ばしたその歩き方はどこかぎこちない。
「……あ、あの……ノア」
ノアの横顔をチラリと覗き込みながら、アリスはふと口を開いた。フラットの館内に入ってもなお、ノアの狼狽ぶりは収まっていない。視線は頑なにまっすぐ前を向いたままだ。
「な、なんだ」
「……ううん。ノアが『雰囲気のあるところで』って言ってくれたの、すごく嬉しかったなって」
「〜〜〜〜っ!?」
不意打ちの追撃に、ノアは足をもつれさせそうになりながらピタッと足を止めた。喉を「ひっ」とならせ、真っ赤な顔でアリスを振り返る。
「き、君は……! 人の精神的ダメージを考慮するという概念がないのか……!?」
「ダメージってひどい! 照れてるノアがかわいいから本当のこと言っただけじゃない!」
「かわ……っ!? 紳士に向かってなんという不敬な形容詞を……!!」
ワタワタと抗議するノアをよそに事務所のドアを開けると、室内には香ばしく甘いアッサムの茶葉の香りが漂っていた。
そこには案の定、淹れたての紅茶を乗せたトレイを手にした老執事バロウズが、すべてを察し切った温かい笑みを浮かべて二人を迎える。
「おかえりなさいませ、ノア様、アリス様。ちょうど最高のお茶が入ったところでございます」
「バ、バロウズ! お前、いつからそこに……!」
「おや、ぼっちゃま。お顔が少々茹で上がっておられますが」
「〜〜〜っ! 黙れ! 喉が渇いた、早くその紅茶をよこせ!」
真っ赤な顔のまま早口で捲し立てるノア。冷徹な天才解剖技師の面影など微塵もなく、ただの「恋に落ちてテンパっている18歳の男の子」だ。
その愛おしい姿に、アリスの口元からふわりと、心からの笑顔がこぼれ落ちる。
霧に包まれた鬱屈としたロンドンの街で、不器用な方程式を抱えた二人。すれ違いを乗り越えたその先に、甘く愛おしい本当の物語が、いま静かに幕を開けたのだった。
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