3 黒い貴婦人盗難事件 1
いつも読んでいただきありがとうございます。
今回は、連続盗難事件の現場へ向かう馬車の中での二人のお話です。
冷徹な計算男ノアが見せる、ちょっとした「違和感」にご注目ください。
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走る馬車の心地よい揺れの中、アリスは向かいに座るノアへ探るような視線を向けた。
「私みたいな年頃の未婚の女の子が、お貴族様と二人きりで密室の馬車に乗るのって……社交界的に、相当マズいんじゃないの?お目付け役もいないし……」
当時のロンドンにおいて、未婚の男女が二人きりで馬車に乗るなど、噂好きの貴族たちに見つかれば一発で大スキャンダルになる不作法だ。だが、ノアは窓の外の街並みに視線を向けたまま、ピクリとも眉を動かさなかった。
「……? 僕と君の質量、および車内の容積から計算して、移動に何ら支障はないが」
「そういう物理的な話じゃないの!世間体とか、スキャンダルとか……噂になったらお互い大変でしょ?」
アリスが呆れ半分に身を乗り出すと、ノアは面倒そうに視線をこちらへ戻した。
「無意味な概念だ。他人の視線という不確定要素を気にするのは非効率的だ。……それとも君は、僕とこの狭い空間で二人きりでいることが『不快』だとでも?」
「もう……。そんなこと言ってないでしょ!」
無表情のまま、まっすぐ自分を射抜いてくる碧眼に、アリスは思わず眉をひそめた。
(急にそういう直接的な聞き方してくるんだから……! でもまあ、この人に『男と女』の意識なんてこれっぽっちもないんだから、気にするだけ損ね…。お母さんも、見て見ぬふりしてたし…)
アリスは「はぁー……」と大きなため息をつき、自意識過剰になりかけた自分を誤魔化すようにポンポンと自分の頬を叩いた。
「もういいわ! 貴方が気にしないなら、私も気にしないことにする!」
「……最初からそうしろ。思考の無駄だ」
素気なく言い捨てて再び窓の外を見るノア。
「はいはい。そういうツンツンした言い方はもう慣れたから。ほら、その事件のこと、移動中に教えて?」
「……騒々しい構造体だ」
ノアは、はぁ、とひとつため息をつき、視線を窓の外に向けたまま、淡々と今回の事件について語り始めた。
「先日から、富裕層の屋敷で『連続盗難事件』が発生している。被害にあった部屋からは、特定の花と貴重品だけが消失した」
「特定の花……? 盗まれたのは何の花なの?」
「『黒い貴婦人』と呼ばれる、極めて珍しい黒薔薇の品種だ。そして今朝、新たな被害宅で、執事が未知の植物毒によって意識不明の重体で発見された」
「毒……!? そんな、大変じゃない!」
アリスは表情を曇らせ、心配そうに身を乗り出した。
「可哀想に、その執事さん、命に別条はないの……? 」
「……君が心配したところで、人間の組織の壊死や薬物代謝の速度は変わらない。時間の無駄だ」
「また、そういう事言う…」
相変わらず冷淡な言い回しをするノアに、アリスは苦笑いしながらも、花屋としての知見を巡らせる。
「……でも、待って。そもそも黒薔薇なんて、自然界に自生するものじゃないわ。交配や管理の知識がないと扱えないはず……花屋の私だから分かるけど、最初からその価値を知っている人物の仕業じゃないかしら」
「その推察は当たっている可能性が高いな。黒い貴婦人は、コレクターの間では高値で取り引きされているらしい」
アリスは、無表情で話し続ける彼の顔をじっと覗き込んだ。アリスの視線を避けるようにさらに窓の方を向くノア。
「ねえ、ノア。あなた、ちゃんと朝ごはん食べた?
顔色が昨日よりちょっと良くないみたいだけど」
「栄養摂取の時間など、捜査の優先順位としては極めて低い。血糖値の低下が認知機能に与える影響は現在数パーセント以下と算出している」
「計算なんてどうでもいいの!身体が資本なんだから。ほら、これ食べなさい」
アリスは羽織っていた上着のポケットから、紙に包まれた今日のお昼に食べるはずだった焼き立てのスコーンを取り出し、ノアの手に強引に押し付けた。
「……なんだ、この高カロリーな小麦粉の加工品は」
「下町の味! 美味しいんだから、四の五の言わずに一口かじりなさい!」
ノアは手の中のスコーンを不快そうに見つめた。脳内では『炭水化物と脂質の結晶。視覚的・構造的に捜査への寄与率ゼロ』と弾き出される。
「……非合理的だ」
ノアはそう呟いた。
だが、拒絶して突き返すことはせず、大人しくそのまま口元へ運び、小さく一口かじった。
「ね? 美味しいでしょ?」
アリスが覗き込むように聞くと、ノアは窓の外を向いたまま、ボソリと言い捨てた。
「……水分量が不足している。……だが、毒素は検出されないようだ」
「ひどーい! せっかくあげたのに!」
アリスは「もうっ」と怒りながらも、ノアが不器用に一口ずつ、残さずスコーンを食べ進めているのを見て、満足そうに目を細めた。
ノアは一口噛み締めるたびに、右手の指先が無意識にコートの胸ポケットへと伸びかける——そこには昨日アリスから受け取った、かすかに花の香りが残るハンカチが収められている。
(……無意味な動作だ)
脳内で自身の不可解な生態反応をエラーとして即座に打ち消し、ノアは指先をポケットの固い生地の上から一度だけそっと押さえつけるにとどめた。
馬車は霧の向こうにある、事件の舞台——静まり返った貴族邸宅の温室へと着実に近づいていた。
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