26 アーチボルト・サマセット子爵令息事件 4
いつもありがとうございます!
アーチー事件、佳境に入ってきました!
どうぞお楽しみ下さい!
「アリス、明日の夜、一緒に劇場へお芝居を見に行かないかい? 勉強の息抜きに、どうしても君と行きたいんだ!」
前日、目を輝かせたアーチーからそう誘われた時、アリスは深く考えずに「いいわね、お勉強を頑張ったご褒美に行きましょう」と頷いてしまっていた。
しかし、それを聞いたノアの顔色は一変した。未婚の令息と平民の娘が二人きりで観劇など、社交界では言語道断のスキャンダルだ。表面上は従者らを同行させて体裁を整えているとはいえ、ノアのあずかり知らぬところで二人が逢瀬を楽しむなど、彼の理性が到底許すはずもなかった。
「ふざけたことを……。明日までにこの過去三年分の事件資料と帳簿の照合を終わらせろ、アリス。一文字でも計算が合わなければ、明日の外出は一切認めない」
ノアは徹夜必至の膨大な書類をアリスのデスクに叩きつけた。アリスの脅威的な集中力を考慮しても絶対に終わらない、完璧な計算に基づく仕事量——仕事にかこつけてアリスを事務所に縛り付け、アーチーとの約束を潰すはずだった。
しかし、ノアの誤算はアリスの能力ではなく、老執事バロウズの存在だった。普段から二人の関係を密かに見守るバロウズが、裏でこっそり資料の整理を手伝ったのだ。アリス自身の粘り強さとバロウズの援護射撃により、アリスは日没前に見事にすべての照合を終わらせてしまった。
「ノア、頼まれた仕事は全部終わらせたわ。約束だから、アーチー様と行ってくるわね」
「……!!!」
パタン、と静かに閉まる事務所の扉。取り残されたノアは、完璧だったはずの自分の策が想定外の介入で呆気なく崩れ去ったショックと、アリスが他の男の元へ向かった激しい嫉妬に苛まれた。冷徹に回転し続けていた脳内の計算回路が、嫉妬と激痛で激しくオーバーヒートしていく。
「………っ!」
バタンッ!!
こめかみを殴られたような激痛と急激な発熱に襲われ、ノアはデスクに倒れ込んだ。
◇
-劇場からの帰り道。 アーチーがアリスのために手配した貸し切りの馬車が、夜のロンドンを走っていた。
「アリス、今日は付き合ってくれてありがとう。
君と見られた劇は、人生で一番素晴らしかったよ」
「ふふ、喜んでもらえてよかったわ、アーチー様。でも、楽しむのは今日まで。明日からはまたしっかりお勉強の続きをやりましょうね」
アリスはいつものように、どこか頼もしい家庭教師のような微笑みを向けた。やがてアリスの家屋の近くで馬車が止まり、先に降りたアーチーが、エスコートのためにアリスへ手を差し伸べた。
「……」
アリスの言葉を聞き、ふと、アーチーは身につけていた革手袋をそっと外すと、アリスの素手をキュッと強く握りしめた。
当時の淑女にとって、手袋を外した素肌で異性に触れられることは、それだけで愛の告白に等しい意味を持つ。
「……アリス。僕は、君の『生徒』になりたいんじゃないんだ」
「っ!?」
アーチーの温かい体温が直に伝わった瞬間アリスの背筋に冷たい戦慄が走った。アーチーの真摯な想いは痛いほど伝わってくる。けれど——それ以上に、自分の中に湧き上がったのは恐怖に近い強烈な拒絶反応だった。
「あ……い、いや……っ!」
アリスは反射的に、アーチーの手を強く振り払ってしまった。
パシッと夜の静寂に乾いた音が響く。
「…!」
「あ……っ、ご、ごめんなさい! 私…私、そんなつもりじゃ……っ!」
ショックに目を見開くアーチーを残し、アリスは身軽さを活かして脱兎のごとく夜の狭い路地へ走り去ってしまった。
「ま、待って、アリス!」
アーチーが慌てて追いかけようとしたが、ちょうど通りかかった別の馬車に道を阻まれ、足止めを喰らってしまう。慣れない下町の暗い路地に入り込んだアリスの姿は、あっという間に夜の闇へと消えてしまったのだった。
胸が激しく脈打っていた。アーチーへの申し訳なさと、己の無意識の拒絶に混乱しながら、アリスはロンドンの夜道を一人走り続けた。
(ノアの時は大丈夫だったのに……。 やっぱり…私は…)
◇
翌朝。重い足取りで事務所の扉を開けたアリスを待っていたのは、老執事バロウズの沈んだ顔だった。
「おや、アリス様……」
「おはようございます、バロウズさん。あの、ノアは……?」
「坊っちゃまは昨夜から激しい頭痛と発熱でお休みになられております。頭脳を過剰に使いすぎ、お心が追いつかなくなったのでしょう……。すでに往診の医師をお呼びし薬は飲んでいただきましたが、『誰も部屋に入れるな』と頑なでいらっしゃいまして……」
バロウズは困ったように微笑みながら、手提げ籠を持ち上げた。
「私はこれから、坊っちゃまの氷と滋養のための買い出しに行ってまいります。……アリス様、坊っちゃまのことをどうかよろしくお願いいたしますね」
「え、ええ、もちろんです! いってらっしゃい、バロウズさん」
バロウズがどこか意味深な表情を残して慌ただしく出ていくと、広い事務所はしんと静まり返った。アリスは罪悪感と胸の騒ぎを押さえながら、奥にあるノアの寝室のドアをそっとノックした。
「ノア……? 入るわよ」
重い扉を開けると、室内には薄暗いカーテンの隙間からかすかな光が差し込んでいた。ベッドの上で、黒髪を乱し、苦しそうに荒い息を吐いているノアの姿があった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
続きが気になる!と思ってくださったら、評価やブクマで応援していただけると励みになります!




