20 不可解な方程式 2
ガス灯の黄色い光が、石畳と湿った濃霧の中にぼんぼりと溶け出している。
夜のロンドンを包み込む冷気と重苦しい静寂の中、黒塗りの馬車がアリスの自宅前で静かに蹄の音を止めた。 御者台の老御者は気配を消し、静かに手綱を握ったまま動かない。主人の尋常ではない空気感を察し、一切の余計な介入を断って指示を待つプロの沈黙だった。
ノアが給与三倍を提示したその日。遅くまで仕事をしていたアリスを、なんとノア自ら自宅へ送っていた。
「……送ってくれて、ありがとう。ノア」
車内の静けさを破り、アリスが静かに微笑む。そっと立ち上がり、ステップへ足をかけるアリスの動作には、一定の距離感が保たれていた。かつてノアに向けられていた甘い照れや熱が、綺麗に削ぎ落とされるように。
ノアの視線がアリスの後ろ姿に固着した。脳内を焦燥が駆け巡り、何かを言いかけるように口がわずかに開くが、声にならない。焦りで手帳を取り出そうとした指が滑り、パタリと座席に落ちた。 そのままアリスの足が地面に降り立った——まさに、その時だった。
「——あれ? アリスか!?」
霧の向こうから、通りがかった青年の明るい声が響いた。 ノアから姿は見えない。だが、確実に若い男の声——。
「えっ……? あ——」
アリスが振り返り、その名前を呼ぼうと口を開いた瞬間。
ガシッ!!
唐突に、ノアの腕が跳ね起きた。恐ろしい速さでアリスの細い手首を掴むと、理性を置き去りにした力任せの動作で車内へと引き戻す。 ドスン、とノアのすぐ隣に倒れ込んだアリスを逃がさぬよう、ノアはすさまじい勢いで馬車の扉を引き戻して叩きつけ、小窓の重厚な厚手カーテンを一瞬で引き閉めた。
外の街灯の光が完全に遮断され、馬車内は一瞬で完全な暗闇と密室に包まれる。
「ノ、ノア!? ちょっと、何やってるの……っ!?」
暗闇の中でアリスが声を殺して焦る。
「…もし車内を見られたら不祥の噂が立って、私だけじゃなくノアの立場だって——」
自分の噂以上にノアの名誉を心配して身を引こうとするアリス。だがノアは、アリスの手首を掴む手にじわじわと力を込め、絶対に逃がさなかった。
「……いやだ……」
暗闇のどこかで、かすれた声が呟く。
「……え?」
直後、暗闇の中で布地が擦れる音が響いた。ノアがアリスを掴んでいない方の手袋を、自らの歯で噛み、苛立ちと焦燥を込めて引き抜く湿った音。ファブリックが音を立てて床へ落ちる。
貴族としての嗜みも、紳士としての理性すら投げ捨て、露わになったノアの熱い素肌。彼はそのまま、アリスの温かく柔らかい素手に、自身の熱い指をスルスルと絡ませ、ぐっと深く滑り込ませた。
キュッ……。
視界がゼロだからこそ、肌と肌が直に触れ合う感触が鮮烈に脳を焼く。指と指が隙間なく深く噛み合っていく。逃がさないと言わんばかりの強い力。だが壊れ物を扱うかのように激しく震える固い交差。ノアの異常な体温が、ダイレクトにアリスの指先から伝わってきた。
「ノア……っ!?」
暗闇の中、顔は見えない。だが、彼が素手で自分の手に指を絡めている感触だけが確かに存在する。アリスは真っ赤になっているであろう自分の顔も、ノアから見えていないことに安堵した。
『おい、アリス!? 大丈夫か!? 誰だ今の! 誘拐か!?』
急にドアを閉められた外の青年が焦って馬車を叩く音が、重い革張りの車内に鈍く響いた。御者は主人の意図を察し、ピクリとも動かずただ気配を殺している。
「だ、大丈夫だから! 私の知人の馬車なの、心配しないでごめんなさい!!」
アリスの必死の叫びで、青年は「なんだ……誘拐じゃないのか……」と困惑しながら去っていったが、
車内に残されたのは、息が詰まるほど重く甘い沈黙だった。
「……ハぁ、……ッ」
荒い呼吸を繰り返すノアは、繋いだ指を限界まで固く握り締めると、ゆっくりと身をかがめた。
トン……。
アリスの華奢な肩に、ノアの額が力なく預けられる。
「ノア……!?」
耳元で響く彼の熱い息遣いと、肩にかかる頭の重み。繋がれた素手からはノアの激しい脈拍が伝わり、肩からは彼の微かな震えが直に伝わってくる。
「……頭が……痛いんだ……。脳が割れそうだ……」
アリスはハッと息を呑んだ。肩に伝わる激しい震えと、耳元で掠れる彼の声。
(そうか……ノア、いつもの発作が起こって、私に縋ってるんだ……)
暗闇の中、アリスは真っ赤になった顔を隠しながら、繋がれていない方の手をそっと持ち上げ、肩に預けられたノアの頭に優しく添えた。
「大丈夫だよ……。……ここにいるから」
無自覚で、どこまでも優しいアリスの言葉。ノアの背中が、息を呑むように小さく跳ねる。ノアはアリスの肩に深く額を押し付け、握りしめた指にさらにギュッと力を込める。
「……そうだ。激痛だ……。だから、手を離すな……絶対に……」
暗闇の密室で、天才は「頭痛」という拙い言い訳にすがりつきながら、ただ一人の少女の肩と手に縋りついて震えていた。




