19 不可解な方程式 1
いつもありがとうございます!
アリスの告白を完全拒否したノア。
その後二人の関係は…?!
どうぞお楽しみ下さい!
翌朝、ノアの事務所兼自宅にやってきたアリスの雰囲気は、昨日までと明らかに違っていた。
「おはよう、ノア。今日の書類、ここに置いておくね」
声は明るい。仕事も完璧。……だが、遠い。
いつもならノアの顔を覗き込み「顔色悪いよ?」と距離を詰めてくるアリスが、今日はデスクからきっちり三歩離れた位置で足を止めている。書類を渡す手も、ノアの指に掠れもしないよう慎重に引かれた。
(……私から近づいたら、また『好き』になっちゃう。ノアを困らせないように、ちゃんと『相棒』として線を引かなきゃ……!)
切ない決意を胸に、静かに事務作業へ向かうアリス。その背中を見送るノアの動きが、完全に停止した。手にしたペン先がカタカタと不自然なリズムでデスクを叩く。ノアは無意識に眼鏡を押し上げ、一度立ち上がりかけるが——アリスが振り返りそうになると慌てて倒れ込むように座り直した。
見たくなくても、ノアの目にはアリスの体の軸が、呼吸が、視線が、昨日までとは違うことが、明確な構造の変化として見えてしまう。今までのアリスの立ち振る舞いを、動き方を、ノアが覚えていないわけがなかった。
やがて、ノアの奇行が始まる。
いつもならアリスに頼む紅茶を自ら淹れようと席を立ったノアだったが、アリスの数歩手前で急ブレーキをかけた。近寄りたいのに近寄れない。ウロウロと意味もなく本棚の資料を並べ替え、わざとらしく大きな咳払いをする。
「……ん? ノア、どうしたの?」
「……っ!な、 なんでもない!!」
声がかかった瞬間、ノアはビクッと肩を跳ね上げ、素頓狂な声を上げて回れ右をした。
さらに十分後。今度は「書類の受け渡し」という正当な口実を作ったノアが、じりじりと歩を進める。しかし、アリスが「あ、そこに置いてくれれば見るよ」と距離を保ったまま手を伸ばしたため、ノアの手は空中で凍りついた。直接手渡すことすら拒否された(とノアには見えた)のだ。
ノアの額に、じわりと冷や汗が浮かぶ。彼はデスクに戻るやいなや、激しい音を立てて羊皮紙の手帳をめくり、何かを猛スピードで書き殴り始めた。ペン先が紙を破らんばかりの筆圧で走り、荒い呼吸とともに手帳をパチンと閉じる。
(距離の離脱=作業効率の低下、および……精神的ストレスの増大。原因不明。この事態を修正する……計算式が存在しない……ッ!)
激しく乱れる呼吸。耳たぶまで真っ赤にしたノアは、ついに最終手段へと打って出た。
「……アリス」
「ん? なに、ノア?」
執務室の入口で立ち尽くしていたノアのもとへ、アリスが一定の距離を保ったまま振り向く。ノアはすっと眼鏡を深くかけ直し、人生の重大な局面を宣告するかのように、不自然なほど重々しく口を開いた。
「——来月から、君の給与を三倍に改定する」
「……………はい?」
アリスはパチクリと目をたたいた。
「それだけではない。特別手当として住宅補助を支給し、週に二日の有給休暇を導入する。さらに……そう、君の好きな花の仕入れ費用も全額僕が経費として負担しよう」
「え、えぇ……!? ノア、急にどうしたの……!?」
唐突すぎるド級の労働条件改善に、アリスは混乱して後ずさりする。しかしノアは、顔を真っ赤にし、呼吸を乱しながら一歩、また一歩とアリスとの距離を詰め——挙句、なりふり構わずアリスのエプロンの裾をギュッと掴んだ。指先が白くなるほどの強い力だった。
「だ、だから……っ! 満足だろう!? 雇用条件としては破格のはずだ! これで不満は解消されたな!?」
必死な顔で裾を握りしめ、上目遣いに自分を見つめてくるノア。アリスは呆然とした後、先ほどからのノアの不自然すぎるウロウロや焦り、そしてこの支離滅裂な行動の意味——「自分を引き留めるために、本気でこんなことを考えた」のだと気づいてしまった。
「ノア……もしかして私に機嫌を直してほしくて、お給料を増やそうとしてくれたの……?」
「〜〜〜っ!? 買収ではない! 論理的なインセンティブの提示だ!!」
顔を爆発しそうなほど赤くして叫び、視線を泳がせるノア。冷たく拒否されて傷ついていたはずのアリスだったが、ノアのあまりの不器用さとズレまくった情けなさに、思わず「ふふっ」と吹き出してしまった。
「もう……ノアって本当にバカ。お金で機嫌が直るわけないでしょ」
「な……ッ! なぜだ!? 経済学的正当性に反しているぞ!!」
「そういう問題じゃないの!」
思わずいつもの調子で笑ってしまったアリスを見て、ノアは裾を掴んだ手にさらにぎゅっと力を込め、ようやく深々と息を吐き出した。眼鏡の位置を整える手は、まだかすかに震えている。
「ふん……まあいい。理由は何であれ、業務への支障は回避された」
ノアはそう言ってそっぽを向いたが、掴んだエプロンの裾だけは、アリスが作業に戻るまでなかなか離そうとしなかった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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