第1話 「第37条をご確認くださいませ」
「エレノア・ヴァンフィールド、貴様との婚約は破棄する!」
豪奢なシャンデリアが煌めく王城の大広間。その中央で、王太子アルフレッドは、まるで罪人を裁くかのように私を指差していた。
——ああ。
やっと来ましたのね、この日が。
私は静かに目を伏せ、口元だけに笑みを浮かべた。
六年前から、ずっと待っておりましたわ。
周囲では貴族たちがざわめき始める。
「ついに氷の令嬢も終わりか」
「王太子殿下のお怒りを買えば当然だ」
「聖女様を泣かせた報いだな」
誰もが、私が泣き崩れ、命乞いを始めるものと思っている。
残念ですけれど。
泣く理由が、ございませんの。
「エレノア!」
アルフレッドは隣に寄り添う少女の肩を抱き寄せた。
聖女ミレイユ。
淡い桃色の髪を揺らし、大粒の涙を浮かべるその姿は、誰が見ても守ってあげたくなるだろう。
「貴様はミレイユを幾度となく侮辱し、虐げた! その傲慢さ、もはや見過ごすことはできぬ!」
その言葉に取り巻きの令息たちが声を上げる。
「そうだ!」
「謝罪しろ!」
「聖女様に跪け!」
なんとも見事な大合唱。
私は閉じた扇を胸元で軽く持ち、静かに微笑んだ。
——前世で三十件もの企業訴訟を勝ち抜いた私が。
まさか異世界で「公開断罪イベント」の被告席に立つとは。
人生とは、本当に予測不能である。
前世。
東京。
深夜の法律事務所。
積み上がる契約書。
コーヒーは冷え切り、窓の外には眠らない街の灯。
「契約書を制する者は、世界を制する」
それが、私の口癖だった。
どれほど感情が荒れようと。
どれほど相手が怒鳴ろうと。
最後に勝敗を決めるのは、契約書に書かれた一文である。
……そして。
ある日の過労の果て。
私は倒れた。
次に目を覚ました時。
六歳の公爵令嬢、エレノア・ヴァンフィールドになっていた。
この世界には魔法があり、貴族がいて、王家があり、婚約制度があった。
だが契約書だけは、前世よりずっと甘かった。
穴だらけだった。
だから私は父に頼み込んだ。
「お父様。王家との婚姻契約書、わたくしにも拝見させてくださいませ。」
最初は笑われた。
けれど、一行ずつ修正案を示すたび、大人たちの顔色が変わった。
違約金。
監督責任。
契約不履行。
解除条件。
第三者介入。
例外規定。
条文は六十を超えた。
幼い令嬢が書いたとは誰も思わないほど、完璧な契約書が完成した。
そして今日。
その契約書は、ようやく本来の役目を果たす。
「……殿下。」
私はゆっくりと扇を開いた。
ぱちり、と乾いた音が響く。
その瞬間。
広間が静まり返った。
笑みを消す。
感情も消す。
法律に感情は不要だから。
「婚約破棄、承りましたわ。」
「ほう。」
アルフレッドが勝ち誇ったように笑う。
「ようやく理解したか。今さら跪いて謝罪するなら——」
「ただし。」
私は言葉を重ねた。
「契約書、第三十七条をご確認くださいませ。」
「…………は?」
その一言で。
広間の空気が変わった。
私はドレスの内側から、一枚の羊皮紙を取り出す。
赤い封蝋。
王家の紋章。
そしてヴァンフィールド公爵家の印。
間違いなく正式な婚姻契約書。
「第三十七条。」
私は淡々と読み上げた。
「王家より一方的婚約破棄が成立した場合、被破棄者たるヴァンフィールド公爵家に対し、王家は歳入三年分を違約金として即時支払うものとする。」
一瞬。
誰も理解できなかった。
「…………え?」
「……王家歳入?」
「三年分?」
次の瞬間。
「さ、歳入三年分だとぉぉぉっ!?」
絶叫が大広間を揺らした。
アルフレッドの笑顔が凍る。
「な……そんな馬鹿な!」
「続きがございます。」
私はページをめくる。
「第五十二条。」
「聖女は貴族間婚姻契約に一切介入してはならない。」
視線をミレイユへ向ける。
「ミレイユ様。」
にこり。
「婚約破棄を扇動された時点で、この条文に抵触しておりますわ。」
「え……?」
「聖女資格剥奪事由に該当します。」
「……え?」
「え?」
「え……?」
ミレイユの表情が。
涙。
困惑。
絶望。
真っ白。
三段階で崩壊した。
「う、嘘……そんな……」
膝から崩れ落ちる。
誰も支えられない。
支えた瞬間、その者も共犯になる可能性があるからだ。
「さらに。」
私はもう一枚めくる。
「第九条。」
「国王陛下は貴族間契約の履行について善管注意義務を負う。」
私は玉座を見上げた。
「陛下。」
国王の顔から血の気が引く。
「六年間、この状況を黙認された責任について、ご説明いただけますでしょうか。」
玉座。
沈黙。
汗。
王冠がかすかに揺れる。
国王は立ち上がろうとして——
立てなかった。
「な……」
「陛下……?」
会場中が凍り付く。
「ふ、ふざけるな!」
アルフレッドが叫んだ。
「そんな契約書など認めん!」
「王家がそんな不利な契約を結ぶはずがない!」
「一体誰がこんなものを書いた!」
私は契約書を閉じる。
そして。
今日初めて。
本当の笑みを浮かべた。
「——私ですわ。」
広間が静まり返る。
「六歳の時に。」
誰一人。
呼吸すら忘れた。
「…………六歳?」
「え?」
「六歳で?」
信じられないという視線が、一斉に私へ集まる。
「殿下。」
私は静かに一礼した。
「契約は双方の合意によって成立いたします。」
「王家は署名し、封印し、保管し、六年間、一度も異議を申し立てませんでした。」
「つまり。」
「本契約は完全に有効です。」
その瞬間。
アルフレッドの顔色は紙より白くなった。
静寂。
誰も何も言えない。
広間には重苦しい沈黙だけが流れていた。
——パチン。
その音だけが響く。
拍手。
一人だけ。
拍手をしている男がいた。
広間の柱にもたれかかる黒髪の青年。
漆黒の軍服。
左目を覆う眼帯。
鋭い眼差しと、不敵な笑み。
辺境公爵、セオドア・ブラックウッド。
「見事だ。」
低くよく通る声が響く。
「ヴァンフィールド嬢。」
彼はゆっくりと歩き出す。
「その契約書。」
「私は全文暗記している。」
——初めて。
私は動揺した。
「……なぜ、貴方が。」
セオドアは私の目の前で立ち止まり、静かに笑う。
「六年前。」
「城の廊下で契約書の草稿を落とした少女がいた。」
記憶が蘇る。
転んで。
紙が散らばって。
誰かが拾ってくれた。
黒髪の少年。
「私はそれを拾って返した。」
「……覚えていないか?」
息を呑む。
まさか。
あの時の少年が——。
セオドアは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
そして私へ差し出す。
「エレノア嬢。」
その口元が、楽しそうに緩む。
「ひとつ提案がある。」
契約書。
差し出された手。
まっすぐな視線。
「——私と、新しい契約書を交わさないか?」
私は、その手を見つめたまま。
生まれて初めて。
返す言葉を失っていた。




