第5話 侵攻開始5
渡り廊下を渡り、保健室のある事務棟と呼ばれる棟に入って右側、保健室のある場所の目の前で、俺は立ち尽くした。
「保健室が、ない?」
保健室が本来あるべき場所に架けられた看板には、化学準備室、の文字があった。扉の隣には、元からそこにあったように化石のレプリカや火成岩の標本が並び、箱の扉側の側面は日焼けしている。
これは、三階の理科室の隣にあった、はずだ。いや、待てなんで俺はそもそもそう思ってるんだ? なぜだ、元からここにあっただろ、日焼けの跡がその時間を確かに教えてるじゃないか。何かの勘違いだろう。
じゃあ保健室はどこに? 俺はそれほど昔でもない校内紹介のイベントを思い出す。が、保健室にかかわるところがどうにもモヤがかかったように思い出せない。
俺が標本の前で立ち尽くしていると、カツカツ、とリノリウムの床を硬い靴底が叩く音と、バニラの深い香りが鼻をかすめる。
この匂いは。
「谷口、そこで何ぼんやりと突っ立ってる」
彼女はいつものように、白衣に両手を入れたままけだるげな目線をくれる。
「斎藤先生、俺の名前覚えてくれてるんですね」
「それはまあ、私のことを匂いで把握してるキモい奴は二回も会えば覚える」
「それより先生、頭痛くて、どうしたらいいですかね」
「保健室で見てもらえ、それともここにある薬でも飲むつもりか?」
「あれ? 先生って保健室の」
「私は化学教師だ、もう何度も授業しているだろう?」
化学教師? そんなわけがない。俺は記憶を遡る、先週にあった理科の授業、教壇に立っていたのは、白衣を着た、黒髪の、斎藤先生である。
「まあ、ここにある薬を飲めば、お前のその頭も治るかもしれんがな」
うっすらと邪悪な笑みを浮かべる彼女が、理科と結びついていくのを感じる。確かに、白衣を着ているし、理科っぽいといえば、理科っぽいし。
「なんだ、保健室の場所、忘れたとは言わないよな?」
「いやあ、まあ、その、念のために聞いても?」
斎藤先生は深いため息をつく。俺は合わせるように息を吸う、ほんのりコーヒーの匂いがした。
「三階の階段の前だ。ほら、さっさと見てもらえ。無理なら帰れよ」
3回の階段の前、俺の記憶が正しければ、この場合現実と食い違っているため、正しいも何もないのだが、そこには理科室がある場所だった。
斎藤先生と話したからか、時間が経ったからか、はたまた彼女の匂いのおかげか、頭痛は存在を確認できるかできないか、程度まで弱まっていたが、それでも俺は階段を上る。
昼休みの事務棟は、静かだ。保健室、理科室をはじめとした、生徒が昼休みに集まらないような場所と、図書室で構成されているからだ。
少し高いところから差し込む光が、空中に舞うチリをチラチラと光らせる。
そして三階、事務棟を一番上まで登りきったところで、俺は彼女に出会った。
丸メガネの、彼女である。
「あ、君!」
「ひゃっ!」
彼女は俺がここに現れることを想定していなかったようで、俺の姿を見て数センチ浮いた。体の向きを変えようとしたところを、俺はその前に立って制止する。
「お、落ち着いて、俺は少し話がしたいだけで」
「う、うん」
二人の声を聞いて、中から日焼けした筋肉で筋張った笑顔の養護教諭が顔を覗かせた。彼は確か、体育の先生だったはずでは、というのは、もう何度目かわからない。
何かあったのか、と聞かれたが、なんでもないですと取り繕って、俺は彼女の手を引いてその場を後にした。
途中、彼女はいいところがある、と言って俺を一階事務棟の出口のところにある一室に連れて行った。
もちろん、そこは化学準備室であった。
彼女はその、扉にかけられた看板をひっくり返す。そこには見慣れない文字の列があった。
『超オカルト研究部』
「超オカルト研究部? そんなのがこの学校にあったのか?」
「そう、とりあえず入って。」
彼女はその看板をまた化学準備室に戻すと、慣れた手つきでその扉を引いて入っていく。
見せる必要あったか? まあいいか。俺も続いた。
初めて入る化学準備室に、かすかな期待と興奮を感じる。
しかし中は、驚くほど普通だった。教室を半分に割ったくらいの大きさの部屋は、カーテンが締め切られ薄暗い。残りの三面を、整然と並んだガラスの棚が埋め、入って左手の壁には無機質な扉が設けられている。棚の中にはラベルの貼られた薬品や薬剤、実験器具が並んでいる。その真ん中には、二つの長机が一つの大きな机を構成しており、その上には棚に入らない実験器具やら生徒のノートやらプリントやらが、無造作に積み重なっていた。
準備室にはもう一人、人の姿があった。もちろん、斎藤先生である。端に設けられた、教員用の机でコーヒーを片手にパソコンの画面に見入っていた。
だから、部屋に漂うのは薬品の匂いではなくコーヒーの香ばしい香りだった。
「ああ、東、それに谷口か。東、やっと部員を見つけたのか?」
「はい」
「そうか、それは良かったな」
「部員? 部員って、なんの? まさか超、オカルト研究部の?」
「そうよ」
「え、俺入ることになってんの? 嫌だよ、そんな変な部活、そもそも良いって言ってないし」
「もう決まってるわ、あなたは入らないといけない」
「いや、入らないよ、絶対」
しかし東、と呼ばれた彼女の目は、とても冗談を言っている様子ではなかった。
彼女は、少し間を置いて、控えめな口をゆっくりと開いて、一音一音をはっきり発音してこう言った。
「あなた、何か最近変なことに遭ってない?」
彼女の言葉に、今日の出来事が思い出される。答えは明らかの、イエスだ、それも特大の。メガネの向こうから見透かすような彼女の目は、じゃあついてきて、と言っている。
「じゃあ、私は職員室に行くから、鍵閉めよろしくな。私が見てないからって変な気を起こすんじゃないぞ」
斎藤先生はパソコンの電源を落とすと、机の上の十数冊のノートを手に準備室を後にした。
彼女は瞳を震わせながら、一歩身を引いた。
「へ、変なこと、するの?」
「やめろやめろ、しないって。いやまあ、斎藤先生なら一旦真剣に考えるかもだけどな」
そういう俺を見る彼女の目の中から光が消える。
「まあ、トモコさん狙うなら好きにしたら良いけど」
「トモコさん? 知り合いなのか?」
「親戚なの。それよりこっちきて」
彼女は俺の手を引いて、その奥の扉の奥に俺を連れていく。
そこは、さっきよりも簡素な部屋だった。準備室をさらに縦に半分に割ったような細長い部屋で、真ん中に長机があり、パイプ椅子があり、ホワイトボードがあり、と、それだけの部屋だった。
「ここが部室よ」
「部室って言ったって、何もないけど」
「それはそうよ、私がこの前作ったから」
「は、はあ、で俺に何の用が? ていうか、そもそも誰なんだ、俺は谷口リョウスケだ」
「じ、自己紹介、どうも。私は東アズキよ」
「それで、俺に何用な訳? 教室まで来てたってことは、何か用事があるってことだよな?」
アズキは問いかけに対して、そうね、と言って一度深呼吸をする。曰く、日常でここまで話さないから深呼吸がいるとのこと。薄い体に入っている肺には確かに酸素が入りそうにはない。
話は後で聞くから、とりあえず聞いて、と言って語り始めたことは、奇想天外、驚天動地と言うに事足りることで、それに信憑性があるからこそ、地面が揺れるような衝撃があったわけだ。
「私はね、超能力者なの」




