第6話 ■■■。■■■。■■■、■■■。 挿絵ː15枚
■■■。
五感が意味をなさない。
■■■。
世界が定義を拒絶している。
■■■、■■■。
すべてが塗り潰された暗黒の地平のただ中で、ソレは蠢いていた。
ぬるりと艶めく黒い影が、まるで意思を持つ泥のように蠢き、こちらの精神を嘲笑うかのようにニヤニヤと大口を開けて嗤っている。
それは、確かに人の形を模していた。頭部があり、胴体があり、四肢とおぼしき輪郭が伸びている。しかし、そのすべてが曖昧だった。■■■のようにぐにゃぐにゃと常に姿を変え、引き延ばされ、縮み、固体と液体の境界を融解させながら、絶えずその形を再構成し続けている。
【■の真理が見たくないか?】
脳の最奥に、直接その「響き」が打ち込まれた。
ソレは声を発しているわけではない。空気の振動を介した言葉ではない。それは、脳という精緻な電気信号の檻の中で直接反響するノイズであり、精神の調律を狂わせる不快な高周波数そのものだった。鼓膜ではなく、魂の表面が直に耳鳴りを上げているような錯覚。
思考を維持しようと周りを見渡すが、そこには視界を構成する最低限の記号すら存在しなかった。何もない。ただの■だ。
上下も、前後も、左右もない。景色という概念そのものが消失した世界。
いや、これを世界と呼ぶには、あまりに言葉が適さなすぎた。
これはただの、■■。言葉を換えるなら、無限に広がる絶対的な空間に等しい。
宇宙が誕生する以前、すべての物質と因果が確率の海に溶け去っていた頃の、■という名の虚数空間。
しかし、その完全なる虚無の中で、ソレが発した【■】という一単語は、明らかにその空間の法則に反するものだった。存在しないはずの質量、発生し得ないはずの意味。
【■】――それは、遥かなる原始の時代において、人類が過酷な自然から生き延びるために編み出した、最初の生きる術であり、すべての文明の揺籃たる概念。
人は土を穿って■を作り、大地を耕し、■■を育てる。
それは自然への反逆であり、混沌に対する秩序の構築に他ならない。
その記憶の片鱗が、唐突に――、
防壁を無視して、無意識の深層心理へと■■アクセスしてくる。
【■に■れよ】
天と地の区別もない虚空において、しかし明確に「上から下へと具現化する」ようにして、■■は目の前に現れた。
それは奇妙に角張った立体であり、同時にどこまでも平面的で、認識の焦点を結ばせない。
手を伸ばせば、確かに■れられる距離にある。
鍵などなくても、開けずとも、その■■を開く方法を人類は、
――遺伝子の奥底で、初めから知っていた。
けれども、現在の、あるいはかつての人類が、その向こう側にある■■■を見出すには、あまりに歴史が、精神の進化が程遠かった――。
◆◆◆◆
「――っ!」
唐突に意識の底から引き揚げられた。
目覚めると、私は何処かの駅の郊外に立ち尽くしていた。
辺りは酷く薄暗い。太陽の気配はなく、凍りついたような夜が世界を支配している。
チカチカと不規則に点滅を繰り返す古い電灯。その頼りない明かりの周囲に、異常なほど大量の羽虫の群れが集り、羽音を立てて蠢いている。その羽音すらも、どこか電子的なノイズのように聞こえた。
駅の入り口とおぼしき場所に、錆びついた看板が掲げられている。
【■■■駅】
文字が読めない。いや、文字という情報そのものが、物理的な墨のような黒塗りで完全に消失している。
目がおかしくなったのかと思い、何度も瞬きを繰り返し、こめかみを強く指で押さえた。だが、変わらない。そもそも私の脳が知覚できる対象の多くが、執拗な■■■で塗り潰されているのだ。
歩を進めるたびに、世界の「バグ」が視界に飛び込んでくる。
【■■■駅 改札】
【■■■駅 切符販売機】
ロータリーの隅にあるバス停の標識。
バス停 【■■■駅 入り口前】
その向かいにある、ひび割れたコンクリートの建物。
スーパー【■■■駅前 業務用スーパー】
世界の輪郭が、名前を奪われて急速に風化していく。その恐怖の中で、私は己の内面へと意識を向けた。自分という存在の根拠を探そうとした。
我の名前は
【■■ ■】
だ。
思い出せない。文字の羅列が脳裏で黒く爆ぜる。
我の年齢は、
【■■歳】
だ。
数字が滑り落ちていく。
だが、住所なら解る。記憶の引き出しの、奇妙に狭い一角だけが鮮明に機能していた。
【■■県■■■市■■-■■■番地】
だ。
この狂った記号の羅列の中にあっても、この場所だけは間違いない。
【■■】
だ。
確かな追憶は出来る。自分がどこで生まれ、どのような景色の場所で息をしていたか、その感覚は残っている。しかし、「名」という概念そのものを、己のアイデンティティを形成する最も重要なコードを消失していることに気づくのは、数秒後のことだった。
必死に思い出そうと脳の海を泳ぐが、網に掛かるのは冷たい虚無だけ。何も出てこない。
焦燥が焦げ付くような感覚。だが、それも当然だった。
そもそも、初めからそのもの自体が、この世界からは消失しているのだ。最初から無かったことにされている。
ただ一つだけ、確信を持って判ることがあった。
さっきまで、ほんの少し前まで、私のことを【■■■■】という優しい響きで呼んでくれた、大切な■■■が隣にいたような(確かな体温の残滓のような)気がするのだ。
その暖かさに触れようとした瞬間、凄まじい衝撃が脳を襲った。
頭ガ痛い痛ゐアタマがイタ■イタイイ■イ■タイイ■イ!”#$%&’!”#$%&!”#$%&!”#$%
視界が真っ赤に染まり、次いで幾何学的な記号のノイズが網膜を埋め尽くす。パチパチと神経がショートするような激痛。頭蓋骨の内側を無数の針で引っ掻き回されるような狂気。
だが、その激しい頭痛は、数秒後には何事もなかったかのように綺麗に消え去る。
後に残るのは、静寂と、さらなる忘却。
■■■。■■■。■■■。
きえル、きえた■え■き■■、■■■。■■■、■■■。■■■。■■■。
気がつけば、駅前の通りをぼんやりと眺めていた。
生きた人間の姿はどこにもない。人影はいない。
それでも、街灯の薄暗い光の合間を、うっすらと半透明な、モザイクがかった■い■■■みたいな影たちが、あてもなくふらふらと歩いている。
目を凝らせば、闇の中に数体、いや、数十のその不気味な影が目視できた。
できた。デキタ、デ■た、■キ■、で■■。■■■。■■■。■■■、■■■、■■■、■■■、■■■、■■■、■■■。■■■。■■■。
思考の語尾が崩壊していく。
遠くの線路から、ゴトゴトと鉄の擦れる音が聞こえた。電車はまだ動いているらしい。しかし、ホームに滑り込んできた車両の運転席を覗き込むと、窓の向こうでハンドルを握る車掌の顔もまた、のっぺりとした■■■だった。
あの電車に乗って、ここではないどこかへ逃げ出せるだろうか。
乗ってみたいが、電車の側面に表示された行先表示板には、ただ一言、
【■■■駅】
とだけ書かれている。どこへ行っても、この黒い領域からは出られないという宣告のように。
カカレ、テ――、カカカカカカカカカカ、カカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカ、カカカカカカカカカ。カカカカカカカカカカカカカ、カカカカカカカカカカカ、カカカカカカカカカカカカカカ、カカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカ。
思考が壊れたオーディオのように同じ音を反復し始める。
この世界では、もはや言語というシステムそのものが無意味なのだ。どれほど高尚な思想を抱こうとも、次の瞬間には考えそのものが忘却され、削り取られていく。ルルルルルルルルルルルル。
セカイの調律が狂っている。
否、クルクルクル。クルッテクッテ喰って食って。
世界が私を消費しようとしているのか。
ククククククククククククククククククククククククククククククククククククク、ク。
狂いそうになる自己を辛うじて繋ぎ止め、辺りをもう一度目視する。
冷たい夜気の中、古びた電灯に照らされた一台の公衆電話ボックスが、ぽつんと佇んでいた。そのガラス面が上空の薄汚れた月明かりと反射して、まるで闇の中に浮かび上がる緑色の棺桶のように、ひどく気味が悪かった。
【解除、方法、知っ■いる、か■】
私の口から言葉が出る代わりに、周囲の空間そのものが震え、奇妙な周波数が反響した。
その音に反応したのか、周囲を徘徊していた黒い影たちの全身から、突如として無数のグロテスクな目玉が一斉に見開き、こちらの存在をハッキリと捉えた。何十もの生理的な嫌悪感を催す視線が、一斉に私に向けられる。
全身の血が凍りつくような圧迫感。しかし、それも数秒のことで、影たちは何事もなかったかのように、また生気のない足取りで歩きはじめた。彼らにとっても、私の存在など世界のノイズの一つに過ぎないらしい。
とにかく、あの電話ボックスへ行かなければならない。直感がそう告げていた。
距離にして、ほんの数メートル。歩けば数秒で辿り着くはずの距離。
だが、足をどれだけ前に進めても、地面がゴムのように伸び、景色が横に滑っていく。一向に電話ボックスとの距離が縮まらない。
空間が不自然に■んでいる。これも世界の■■■か。
だが、脳内に奇妙な「攻略法」が不意に浮かび上がった。
解除方法は、意外にも簡単■。
物理的に辿り着けないというのなら、世界の法則を無視して、その対象をこちらへ引き寄せればいい。強く、■ずる。
――在れ。
念じた瞬間、世界のフレームがガタついた。次の瞬間には、目の前に公衆電話ボックスが唐突に「在った」。
ガラスの扉に手をかけ、引き開ける。饐えた埃と、微かなオゾンの臭いが立ち込める狭い空間。
私は迷わず、油染みた緑色の受話器を持ち上げた。
プー、プー、プーという電子音の代わりに、液晶ディスプレイがチカチカと発光する。
■■■■
■■■■
■■■■#
肝心のダイヤルボタンの数字が、ほとんど黒く塗りつぶされてい■。
それでも、私の指は迷わなかった。身体が、魂が、その並びを確かに知っていた。
ボチボチ。ボチボチボチ、ボチ■■■。■■■■■。■■■。■■■■■。
■■■。■■■■■。■■■。■■■■■。■■■。■■■■■。■■■。
指が勝手に、あり得ない速度で番号の羅列を押していく。受話器の向こうから、聞いたこともないような長い呼び出し音が響き渡った。
トゥルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルル。
トゥルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルル。
トゥルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルル。
正確に三回ほど規則的に呼び出したところで、カチリと回線が繋がる音がした。電話がつな■る。
『はい!こちらFKLネットワークサービスの《先導者》田中三代目と申します』
受話器から聞こえてきたのは、この世界の陰惨な静寂とは完全にかけ離れた、やけに軽薄で、それでいて酷くビジネスライクな声だった。
『お客様の要件は解っております。お困りのようですねえ、ええ。災厄の解除手続きですね。……ん? なになに? 解・ら・な・い?”#$%& ――おっと、失礼。通信に少々ノイズが混じりましたが、問題ありません。私は現在、お客様が全方位から受けている、その不愉快な呪いを打ち消したり、お客様の現在のニーズに合わせた最適な新サービスを提供することができます。さあさあ、お取引を始めましょう。こちらからメニューをどうぞ。ああ、それから一言。《農》POINTの利用は計画的に。アデュー!』
一方的にそれだけをまくしたてると、声は途絶えた。
代わりに、電話機の上部に設置されていた旧式のディスプレイが、異常な高輝度で明滅を始め、幾つかの項目を表示し■。
【FKLネットワークサービス・ステータス画面】
•所持: 《215農》POINT
•現在の災厄ステータスおよび解除メニュー:
o《虚数言語》 level.1 【必要:20p】
o《記憶》 level.1 【必要:20p】
o《買い物》 level.1 【必要:20p】
o《常闇状態解除》 【必要:9999999p】
o《時間固定解除》 【必要:500億p】
o■■■の常設化 【未開放】
o■■■■の営業 【未開放】
o■■■の引き出し 【未開放】
o■■■■■の利用 【未開放】
o■■■……
o■■……
o■……
o
常闇の解除や時間の固定解除に必要なポイント数は、天文学的な数字で到底足りない。しかし、上位にある三つの項目――《虚数言語》《記憶》《買い物》の三つに関しては、現在の所持ポイントを考えれば十分に解放できそ■うだ。ダダ゛ダダダダダダダダダダダダダ。■■■■。
私は迷わず、その三つの項目を順番に指でタップした。
電子音が鳴り、画面上の《農POINT》の数値が《215 ⇒ 165》へと滑らかに減少していく。
その瞬間。
ガラガラーゴロゴロー、ガラガラガラ、ガラガラガラー。
世界の歯車が強引に噛み合うような、重苦しい金属音がどこからか鳴り響いた。建物の歪みが矯正され、大気が一瞬だけ引き締まる。
効果は劇的だった。私の思考を絶え間なく苛んでいた、言語の崩壊や■■■といったバグ表現、同音の不気味な文字列の羅列などが、明らかに減った気がする。脳内を埋め尽くしていたノイズが引き波のように去り、クリアな意識が戻ってくる。
しかし、記憶の解放に関しては、まだシステムが「準備中」であるかのように、上手く頭の回路が働かない。霧がかかったままだ。
けれど、自分がこの世界に落ちる前にいた、あの光に満ちた本来の世界のことは、もう少しで完全に思い出せそうなところまで迫っている。
これ以上、この狭いボックスに隠れていても始まらない。私は受話器を置き、重いガラス扉を押し開けて、再び薄暗い街へと歩き出すことにした。
通りに出ると、先ほどまでは単なる「黒い塊」にしか見えなかった商店の数々が、徐々にその輪郭を取り戻しつつあった。しかし、どの店も一様に重苦しい鉄製のシ■ッターが固く閉ざされている。完全に閉店してい■のか、あるいはまだポイントが足りないために世界にロックされているのか。
それでも、あの不思議な電話ボックスで機能を順番に開放していけば、この街の施設も順次使えるようになると思うのが妥当だ■■■。
確信に似た予測を胸に、静まり返った街を歩くこと数分。
不意に、世界の歪みの合間に、一台の巨大な平屋の建物が見えてきた。その店だけは、周囲の闇を拒絶するようにこう々と明かりが灯っている。
建物の外壁には、見覚えのあるフォントで大きな看板が掲げられていた。
【ホームセンター《■■店》】
まだ店名の部分は塗りつぶされているが、営業していることは確かだ。
広大な駐車場を見渡すが、ここには車は一台も停まっていない。持ち主を失った自■車すらも見当たらない。完全な静寂。
意を決して、自動ドアをくぐり、店内に足を踏み入れる。
その瞬間、レジの脇に佇んでいた人型の黒い影が、ゆっくりとこちらを振り向いた。影の顔に裂け目ができ、そこから、
「――■ラッシ■イマセ」
と、声が掛けられた。
相変わらず酷い片言ではあったが、世界が調律されたおかげで、今度ははっきりと意味が聞き取れた。タタタ。
店内を探索し始めるが、商品棚のほとんどは空っぽのままで、白い埃をかぶっている――■■■。
天井からぶら下がっている「どのエリアに何があるか」を示す案内プレートも、その多くが墨で■で■■■で塗りつぶされて■る。
だが、広大な店内の最奥、一箇所だけ、まるで血を流しているかのように鮮烈な《農具》という赤い文字で書かれたプレートが、異様な存在感を放ちながらこちらの視界に飛び込んできた。
その赤を見た瞬間、私の脳内で、せき止められていた記憶の濁流が爆発的に決壊した。
人は、ほんの些細なきっかけで、失われた記憶を完全に書き戻すことができる。これこそが、記憶喪失というバグに対する、脳の典型的な直し方だ。
「――思い出した!」
私は叫んでいた。己の喉が、確かな言葉を紡ぐ。
「我は……私は《ジョニー》だ! そうだ、ミツハだ。ミツハとともに、あの緑豊かな菜園で、最高の野菜を作ろうとしていたんだ!」
霧が完全に晴れた。自分が何者であり、誰のためにここにいるのか。この狂った世界からの戻り方は、たぶん、これで合って■はず。農の営みこそが、私の世界の楔なのだ。
私は《ジョニー》としての記憶に従い、今この世界を打開するために必要な、最低限の農具を探し当て、次々と棚から掴み取った。
土を耕すための、頑丈な「鍬」。
雑草を刈り、道を切り開くための「鎌」。
深く土を掘り返すための「スコップ」。
そして、地表を覆い、作物の成長を助けるための「マルチ(マルチング)フィルム」。
それらを一つずつ、プラスチックのカゴの中へと入れていく。
棚の隅には「除草剤」のボトルも並んでいたが、なぜかそれを掴もうとすると、見えない壁に阻まれたように指先が弾かれ、カゴに入れることはできなかった。タタ■。
(おそらく、現在の私の残り少ない農POINTの低さが、購入制限として影響しているた■か?)
これ以上の深追いは危険だ。私はカゴを抱え、脱出するためにダッシュでレジへと向かった。
レジの奥では、相変わらずあの不気味な黒い影が、微動だにせずこちらを待っている。イルイルイル■■、■。
カゴをカウンターに置き、私は告げた。
「お願い■■す」
影は、指先が完全に欠落した暗黒の手を伸ばし、鍬や鎌を一本ずつ掴んでは、バーコードリーダーの代わりに商品へ直接、不可視の刻印を押していく。ピッ、ピッという無機質な音が店内に響く。
そして、影は慣れた手つきで、それらの農具を大きな袋へと詰め始めた。
それは、光を一切反射しない、底の知れない暗黒の袋だった。詰め込まれたはずの重い鉄の鍬やスコップが、袋の中に収まった瞬間に、まるで別の次元へと消えていくように見えなくなった。
「……どうも」
受け取ると、袋は羽毛のように軽かった。
それと同時に、脳内でポイントの精算が行われる。
《農POINT:165 ⇒ 5》
ついに、ポイントは底をつきかけていた。だが、必要なものはすべて揃った。
私はホームセンターを飛び出し、冷たい夜気を切り裂きながら、自分が最初にこの世界へと降り立った、あの始まりの場所へと急いで引き返した。
辿り着いたのは、薄暗い駅の片隅にある、荒廃した施設だった。
【男子トイレ】
■■■駅構内、改札のすぐ脇にある男子トイレだ。
悪臭の立ち込める空間に飛び込み、私は手洗い場へと向かった。そこにあるはずの鏡を覗き込む。
しかし、鏡面は自らの姿を映してはいなかった。そこは、まるで誰かが悪意を持ってぶちまけたかのような、ドロドロとした黒い■■■で完全に覆い尽くされていた。
だが、ここが境界だ。
確信があった。
私は手に入れた農具の袋を抱きしめ、覚悟を決めて両手を前に突き出した。
その黒い■■■の表面へと、己の全身の体重を限界までかける。
抵抗はなかった。
パシャリ、と冷たい水膜をくぐり抜けるような感触と共に、私の身体はあっけなく、ずるりと鏡の中の闇へと呑み込まれていった。
視界が激しく反転し、ノイズの音が遠ざかっていく。
私の意識は、再び確かな重力と、土の匂いがする場所へと向かって、急速に浮上し始めていた――。
つづく




