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第5話 【我、タネを蒔く】 挿絵ː14枚

挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)

農業において、育苗箱いくびょうばこで種を蒔き、それを一人前の「苗」へと育てるプロセスはすべての基本である。そして、その苗を健康に育てるための土壌に、あらかじめ適切な栄養を仕込んでおくことは、農家にとって常識中の常識だ。適切な肥しや栄養を施すことによってのみ、植物はその成長スピードを劇的に高めることができる。


「なんなら、うちの店の特製栄養剤を土にたっぷり散布してからタネを蒔いた方がいいアルヨ!」


そう言って親切に声をかけてくれたのは、街の園芸専門店『イーゲル園芸』の店主である《ツー・シンユェ》ことシンユェだった。


彼女のありがたいアドバイスには感謝するが、しかし、我は心のどこかで冷静にその提案を分析していた。なぜなら、観賞用のお花に使う栄養剤と、人間が食べるための野菜に施す肥料は、その主成分が根本的に違う。それ以前に、そもそも「栄養剤」と「肥料」は完全に別物なのだ。


我が失った記憶の片隅にある元の世界――日本においては、こうした栄養剤は植物の生理活性を高めるための「活力剤」という名称で広く販売されていたはずだ。


一般的に、アンプル剤のように土にそのまま突き刺して使うタイプがある一方で、本格的な製品の多くは水で数十倍から数百倍に希釈して使用する濃縮液体タイプが多い。

挿絵(By みてみん)


いずれにしても、ここで最も重要なのは、「活力剤だけでは植物に充分な栄養を補給することはできない」という厳然たる事実だ。

活力剤を真に効果的に使うためには、植物にとっての主食である「肥料」ときちんと併用することが絶対条件なのである。


分かりやすく人間に例えるならば、肥料が毎日の主食である「白米や肉」だとすれば、活力剤は「マルチビタミンなどのサプリメント(栄養補助食品)」のような役割をしている製品なのだ。サプリメントだけを摂取して、主食を一切食べなければ人間が餓死してしまうように、植物もまた活力剤だけでは大きく育たない。


栄養の消費量が比較的少なくて済むお花であれば、多少の活力剤や栄養剤だけで綺麗に咲き続けることも可能だろう。

しかし、人間の胃袋に入ることを目的とした、実がぎっしりと詰まった熟成野菜を育てるとなれば話は別だ。しっかりと本物の肥料を与え、丸々と肥えた肥沃な土壌を用意しなければ、せっかくの種も全く意味を成さないのである。


野菜を育てる畑において、一般的に「良い土」と定義されるのは、以下の3つの条件が完璧に満たされた土のことだ。

挿絵(By みてみん)


保水性ほすいせい: 水分を適度に蓄える力


水はけ(透水性): 余分な水を速やかに排水する力


通気性つうきせい: 土の中に新鮮な空気を循環させる力


そして、野生の荒れ地をこの理想的な土へと生まれ変わらせるためには、以下の3つの資材を正しく混ぜ合わせなければならない。


苦土石灰くどせっかい: 酸性に傾いた土壌のpHを調整する


混合堆肥たいひ: 土に有機物を補給し、フカフカにする


肥料ひりょう: 植物の成長に直接必要な栄養素(窒素・リン酸・カリ)


これらが絶妙なバランスで混ざり合うことで、土の粒子が小さな塊を形成する、いわゆる「団粒構造だんりゅうこうぞう」が生まれ、野菜にとって最高のベッドが完成する。


しかし、現段階の我が置かれている状況はといえば、畑の開墾以前の問題として、まずは育苗箱に敷き詰めるための「床土とこつち」すらも、十分に肥えた土を用意しなければならなかった。したがって、何はともあれ本格的な「肥料」の入手が、我にとっての最優先事項となったのである。我は先ほどのシンユェの言葉を思い返す。

挿絵(By みてみん)

『あいにく、うちの店では現在、本格的な野菜用の肥料は取り扱ってないアルヨ。……あ、でもちょっと前まではね、森林組合の方たちが街の外れにある森から、すごく質の良い肥料が採れる採掘場を見つけて、そこで肥料をたくさん採掘してたアル。けどォ……困ったことにそこは近頃、狂暴な魔獣が蔓延るようになってしまって、今は誰も近づけない危険な場所になってるアルよ』


なるほど。この世界でまともな肥料を手に入れるためには、危険な森へと命がけで突入するか、さもなくば憲兵団や高腕の冒険者でも大金で雇って護衛してもらうしかなさそうだ。現在の我が所持金はわずか13,800円。そんな大金を払えるはずもない。


「はぁ……前途多難だな」

挿絵(By みてみん)

我は、どうしようもないほどに青々と生い茂った浅緑の雑草が広がる空き地と、手元にある『旧式育苗箱(大)』を交互に見つめながら、ぽつりとため息をついた。この育苗箱には、ありがたいことに『育成加速ブースト(小)』という特殊効果が付与されている。

肥料がない現状を嘆いて立ち止まるよりは、まずはこの育苗箱の性能を信じて、野菜のタネを蒔くことを最優先にした方が賢明だろう。



確固たる確証があるわけではないが、このチートじみたブースト機能があれば、肥料が不足していてもタネを一人前の苗にまで急成長させることが可能かもしれない。


通常の環境ならそれ以上かかるトコロだが、この育苗箱の加護があれば、おそらく苗に仕立て終えるまで「10日」は掛からないはずだ。

ならば、タネが苗へと育つまでのその猶予期間を利用して、この雑草だらけの空き地問題をどうにかすればいい。

あの、引き抜くのにも一苦労する憎きカヤツリクサやインキ草の群生、そして、かつては大樹だったのだろうが今は無残に地中深く根を張っている、あの巨大な障害物――《切り株》をどうやって始末するか。


山積する課題に頭を痛めつつも、これらは野菜を作る上で最終的には絶対に解決しなければいけない問題なのだ、という結論に達し、我はぐっと拳を握りしめた。


時計の針が午後を回ると、我がお世話になっている喫茶店《常盤木亭》の店内は、昼食を求める客たちで一気に活気づき始める。そのため、我は店主であるミツハさんのテキパキとした指示に従い、軍手を外して厨房から次々と上がってくる出来立てのお料理を、客席までせっせと運ぶ給仕の仕事に追われることとなった。


それにしても、この街の昼時のお客さんたちは、何故か揃いも揃って激辛メニューがたまらなく大好きなご様子だ。

挿絵(By みてみん)

厨房からは、ドロドロとした赤みの強いスープが入った麺料理や、これでもかとスパイスがまぶされた魚や肉料理の注文がひっきりなしに飛び交っている。


「はい、ジョニー先輩!『スパイシーチキン特盛』上がったよ! すっごく熱いから、気を付けて運んでいってね!」


「はいよー、任されよ」


カウンターに置かれたのは、この世界の野生の鳥を使ったという、特大サイズのチキンステーキだった。

皿の重量だけでもそこそこの重さがある。我は慎重に、しかし手際よくバランスを取りながら歩き、テーブル席Aで待っていた鎧姿の騎士っぽい男性客の前へと滑り込ませた。

挿絵(By みてみん)

「お待たせいたしました。スパイシーチキン特盛です。どうぞ温かいうちにお召し上がりください」


難なく料理を配膳し終えたのも束の間、すぐさまテーブル席Cとカウンター席の方から、チリンチリンとせっかちに呼び鈴が鳴り響く。我は休む間もなく次の注文を取りに店内を駆けた。


「はいそこ、ジョニー先輩! ぼさっとしないで、もっとテキパキ動いてねーっ!!」

挿絵(By みてみん)

厨房の奥から、ミツハの活気ある(悪く言えば容赦のない)叱咤の声が飛んでくる。我は、店内に満ちた熱気とお客たちの空腹に飢えた視線に圧殺されそうになりながらも、一皿一皿のお料理を確実に運ぶことに自らの全心血を注ぎ込んだ。


何と言っても、この広い店を実質的にミツハと我の「二人しかいない」という圧倒的な人手不足の状態で回しているのが致命的すぎるのだ。

けれども、我がこの店に雇われるまでの間、この激務である調理と接客のすべてをたった一人でこなしていたというミツハの過去を思えば、彼女の並外れた根性と豪胆な人柄には、つくづく感服せざるを得ない。


午後14時を回ると、あれほど戦場のように騒がしかった客足も、嘘のようにめっきりと減ってきた。

ようやく訪れた静寂の中、我々は待ちに待ったまかない飯をもらい、ゆっくりと遅めの昼食を取る時間を手に入れた。


目の前の皿には、肉厚のステーキに、どろりとした赤黒い謎のタレがたっぷりとかかっている。……一体これは何の肉なのだろうか。一口運んでみると、赤いタレは頭皮から汗が噴き出すほどに辛いが、肉の脂と絡み合って驚くほどに旨い。


「ミツハさん、この肉は……食感からして牛肉か何かなのか? あと、この赤いタレの辛味は唐辛子で合っているよな」


我の素朴な疑問に対し、ミツハは給水器から水を注ぎながら、さらりと背筋に戦慄が走るような恐ろしい事実を口にした。


「あ、それね、この前猟師さんから仕入れた『魔猪ワイルドボア』の肉ですよ。で、その赤いタレはね、森に棲む『肉食鶏』の新鮮な生き血をベースにスパイスを調合して加工した特製ダレなの」


「――っ!?」


我は豪快に額から汗を流し、フォークを片手にバクバクと肉を口に運んでいた動きをピタリと止めた。さらりと述べているが、色々とツッコミどころが満載すぎる。魔猪……? 肉食鶏ってなんだ? そして何より、生物の「生き血」ってこんなに刺激的に辛いものなのか……。


「あれ? ジョニー先輩、もしかしてお口に合いませんでしたか……?」


心配そうに覗き込んでくるミツハに対し、我は引き攣った笑みを浮かべながら慌てて肉を飲み込んだ。


「ええっと……いや、すごく美味しい。美味しいけれど……うん、なんでもないんだ、気にするな」


我が失った記憶の引き出しを引っかき回してみると、日本でも猪の肉は業務用スーパーの片隅などに『ボアミート』として陳列されていた気がしないでもない。だが、これまでの人生で猪肉など一度も食べた記憶がなかったため、もっと生臭いものだと思い込んでいたが、ミツハの調理腕前のおかげか、あるいは肉食鶏の血のタレのおかげか、臭みは微塵も感じられなかった。


「ふふ、良かった! しばらくの間は夜の営業まで客足も途絶えますから、先輩のヤサイ作りのお手伝いなら、多少の時間ですけど私も喜んで尽力しますよ! イクビョウバコに夏野菜のタネを蒔くのでしょう? 是非、この私を助手としてこき使ってください!」


「お、それはありがたい。なら、種まきに必要な新鮮な水の確保をお願いできるか?」

挿絵(By みてみん)

「はいっ!」


ミツハは我が受理した申し出に嬉しそうに表情を輝かせ、その場でペコリと綺麗に畏まった。こうして、臨時の頼もしい助手を得たのである。


厨房裏の裏庭へと移動し、我は物置にあった一輪車を使い、その辺りの地面を少し掘り返して集めた普通の土を運んできた。そこに、先ほど『イーゲル園芸』で購入したばかりのアンプル剤(活力剤)を混ぜ合わせていく。


先述の通りこれはお花用の活力剤であり、野菜に対して完全な効果は期待できないが、現在の肥料不足の状況においては、何も入れないよりはずっとマシであることを我の直感が告げていた。

それにしても、なぜ記憶喪失であるはずの我が、これほどまでに農業の専門的な知識をスムーズに引き出すことができるのだろうか。ふと脳裏をよぎった疑問だったが、今は深く考えている時間はない。


「ミツハさん、今からあなたは我が直属の助手です。そのスコップを使って、育苗箱のマス目へ均等に土を盛り込んでいってください」


「はい! ジョニー先輩、了解です!」

挿絵(By みてみん)

ミツハは元気よく返事をすると、小さなスコップを器用に操り、育苗箱のセルの隅々まで均等に土を盛り込んでいった。


土には栄養剤をたっぷりと吸わせ、さらに物置の隅に転がっていた年季の入ったボロじょうろを使い、適度な水分を優しく含ませた。これで作物のタネが健康な苗になるまで育成するための、最小限の土台は完成した。



苗を仕立てる。どのような巨大な野菜であっても、すべてはここから始まるのだ。実が成り、やがて収穫の時を迎え、次第に作物は次の世代へと子孫を繋ぐための種を残して枯れてゆく。――つまり、農業の始まりと終わりは、すべてこの小さな『種』の中に凝縮されているのだ。そして今、その大いなる始まりの種が我の手の中にある。



この異世界の地で、我が丹精込めて育てた野菜を必ず通用させて見せる。そんな強い意気込みと静かな野心が、我の胸の中で熱く燃え上がっていた。


「よし、タネは繊細だから我が蒔きますね。ミツハさん、これは『トマト』という野菜のタネなんですよ。上手く育てば、鮮やかな赤い実がたくさん生って、サラダにすると瑞々しくて最高に美味しいのですよ」


我は育苗箱の土の表面に小さな溝を作り、トマトのタネを等間隔に並べる『条蒔き(すじまき)』にし、上からそっと優しく土を被せた。


「ふーむ、ここから芽が生えてくるのですね……。赤い実ということは、なんだか肉食鶏の剥きたての心臓のような味がしそうで、とっても美味しそうです!」


「例えが物騒すぎるな……。よし、次は『ナス』ね。これは収穫期になると、綺麗な紫色の細長い実が生るんだ。それを炭火で焼いたり、油で揚げたり……そうだ、助手の得意料理であるあの激辛タレと絡めて、いわゆる『麻婆ナス(マーボーなす)』にしても最高に旨いんですよ」


「ええっ! 激辛ナスですか!? それ、絶対に私大好きなやつですぅ! 完成したら是非うちの店の新メニューに付け足させてください!」


ミツハはその場でピョンピョンと壮烈に飛び上がりながら、満面の笑みを浮かべて大興奮している。どうやら新メニューへの導入を猛烈に熱望しているようだ。


しかし、彼女の食レポの例えがことごとく斜め上をいっていて、相変わらずコメントのしようが無い。というか、そもそも肉食鶏とはどんな恐ろしい形をした鳥なのだろうか、想像するだけで少し怖い。



我はナスのタネを、先ほどのトマトの列から約0.5〜0.8センチメートルほどの正確な幅をあけて、同じように丁寧に3列ほど蒔いていった。

そして仕上げに、我は先ほどあらかじめ荒れ地から伐採して用意しておいた、一本の立派な「竹」を取り出した。手で力を加えると、折れることなく十二分にしなってくれる素晴らしい弾力性を持っている。心の中で「グッジョブ、我が選択」と自画自賛した。


「ここでだ、我が用意したこの撓り(しなり)のいい竹の出番というわけさ」


「あ! もしかして、その竹をアーチ状に曲げて育苗箱に刺して、上から透明なビニールをかけることで……簡易的な『トンネル』を作るのですねェ! 温室のような仕組みは、お花の生育を劇的に助けると聞いたことがありますっ!」


「その通り、ご明察だ」


野菜作りの初期段階において、苗床にビニールを被せた「トンネル」を設置するのは、近代農業の基本中の基本だ。

この小さなトンネルは、冷たい夜風からデリケートな新芽を守る寒さ除け(保温効果)だけでなく、空からタネを狙ってくる鳥たちの害を完全に防止する防鳥効果もある。特に気温の寒暖差が激しい地域や季節においては、トンネルの有無が発芽率を大きく左右する。


挿絵(By みてみん)


「よく知っていたね。さらにハウスを作るときや、ビニールをより強固に張るためには、風で飛ばされないように紐で上からしっかり押さえる必要があるんだ。その際、竹を刺した根元に二本の棒切れをバツ印に組んで杭にすることを覚えるとさらに作業が楽になるよ。まぁ、時期が来たら実際の畑で詳しく教えてあげるけどね」

挿絵(By みてみん)

我が口元が自然と緩み、自信に満ちた笑みがこぼれる。


黄金色に染まる黄昏の刻、我らの記念すべき最初の種まきは、こうして極めて順調なスタートを切ったのだった。肥料不足という懸念材料こそあれど、今日できる限りのまずまずの結果を残せたのだから、初日としては十分すぎる成果といえよう。


今はまだ、この小さな箱の中で小さな野菜の命を育むことしかできないが、いつか立派な野菜が収穫できたら、助手であるミツハさんにも美味しい野菜の調理法をたくさん教えていきたいものだ。


夕刻のチャイムが街に響き渡る頃になると、案の定、一日の労働を終えて腹を空かせた夕食時のお客たちが、常盤木亭の店内へとわんさと飛んで押し寄せてきた。


目の前にあるやるべき仕事を一つずつ確実にこなし、明日という日も泥臭く頑張る。それこそが、記憶を失った我がこの世界で見出した、新たな生きスタイルなのかもしれない。自分がなぜこの異世界に転生してきたのか、その真の意味はまだ分からないけれど、全力で生きていれば、いつかすべてが解き明かされる日が来ると信じて、今日も我は熱く生きる。


「よし、ミツハさん、夜の部も気合を入れていくぞ!」

「はいっ、先輩! がんばりましょう!」


我らは押し寄せる客の波を迎え撃つべく、《常盤木亭》の店内で今日最後の大仕事に取り掛かるのだった。


街の外には、穏やかで深い夜のとばりが、もうじきに下りようとしていた。

挿絵(By みてみん)

つづく。



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