第4話 【我、異世界の畑を耕す】① 挿絵ː14枚
我が記憶を失って、一体どれくらいの時間が経ち、どれほど深く眠っていたのかは分からない。しかし、目覚めてからの慌ただしく忙しない一夜が、ようやく静かに明けようとしていた。
現時点で失われた記憶を取り戻せる見込みは全くないし、そのような過去の断片が頭をよぎる兆候すら、起こることはないだろう。確かなのは、我がかつて■■人であり、農業という職に就いていたという指先の感覚だけだった。
この見知らぬ土地で途方に暮れていた我を拾ってくれたのは、商業都市イーゲルの片隅で《常盤木亭》という食堂を営む少女、ミツハだった。彼女が言うには、メニューに我の知る「野菜」という未知の食材を追加するためなら、ひとまず仮契約を結んでやってもいいよ、という次第でなんとか決着がついたのだ。
記憶はなくとも腹は減るし、何より生きるために土が必要だった。我はさっそく、作物を育てるための空き地があるかと彼女に問うた。
すると、ミツハは「野菜の作りに全力を尽くせよ」と、若き店主らしい真剣な眼差しと言葉の仰せで我を促し、厨房の裏口から繋がる外へと移動することになった。
しかし、そこで我の目の前に広がったのは、まさに言葉を失うような、見るに堪えない空き地だった。
ただ単に管理していないとか、そういう生易しい問題ではない。何年もの間、完全に人の手が絶えて放置されていた空き地の惨状は、想像以上に酷いものだった。地面という地面から草という草が我が物顔で青々と生い茂っており、カヤツリグサをはじめとする生命力の塊のような最凶の雑草たちにとって、ここは恰好の餌場であり楽園と化していたのだ。さらに、土のあちこちからゴツゴツとした巨大な切り株が墓標のように生えているのが、何よりも厄介で絶望感を際立たせていた。
我の引きつった顔を見て、ミツハは頭の後ろで手を組みながら、悪びれもせずにこう言った。
「数年前にね、常盤木亭の二号店を作ろうと思って隣のこの空き地を買い取ったんだけどさ。結局、人手不足のせいでずっと放置してるんですよ。だから、ジョニー先輩が野菜を作るっていうなら、ご自由にどうぞ使ってください!」
本人は実にあっけらかんと言ってのけるが、雑草がすでに大人の背丈に迫る1メートルを超えているこの土地は、農家としての視点から見れば完全に「終わっている」荒れ地だ。生い茂る緑の大部分は、■■でも駆除が面倒な大手雑草であるインキ草やカヤツリグサが大部分を占めている。チラホラと見え隠れしているあの頑強な切り株たちも、すべてどうにかして掘り起こすか粉砕しなければ、畝を立てることすらままならないだろう。
本来、このような深刻な空き地に対する■■の近代農家的な対処法としては、まず強力な非選択性除草剤を一面に散布して根まで完全に枯らし、その後で大型の草刈り機や刈払機で雑草を一掃。仕上げに馬力のある耕運機やトラクターのロータリーで豪快に土を反転させ、瞬く間に美しい耕地に変えていくのが正統法なのだ。
しかし、この未知なる異世界には、近代的な除草剤はともかく、草刈り機以降の科学的な農業文明など、いくら人々の噂を聞いても耳にした話はない。あるのは己の肉体と、原始的な道具だけだ。
「まずは……鎌や鍬、それと手を保護するための軍手、だな」
我は泥臭い手作業を覚悟し、腰に手を当てて呟いた。ミツハさんから聞いた話によると、この街のどこかに『イーゲル園芸』という小さな園芸屋さんがあるらしい。
その情報を唯一の頼りにして、我は道具を買い揃えるべく、初めてこの巨大な商業都市イーゲルを本格的に散策することとなった。さっきお店で町の大まかな名前と構造を聞いたので、即席の簡単な手書き地図を貰い、それを片手にブラブラと歩き始めた。
商業都市イーゲルという街は、中心部から外側に向けて一番街から三番街まで、綺麗な円状に構成されている非常に合理的な都市だった。歩きながら、我はミツハさんから聞き伝に得た情報を頭の中で反芻していた。
一番街は、お家が裕福な貴族や大富豪たちが豪華な豪邸を連ねて優雅に過ごしている、いわゆる■■でいうところの「財閥」や「セレブ」が集まる一等地だ。高い塀の向こうから美しい庭園が見え、血統の良さそうな犬の散歩をする貴婦人が、眩しそうに日傘をさして優雅に歩いている光景が高頻度で見られるらしい。まあ、記憶をなくして無一文に近い一般庶民の我には、到底縁のない、一番街とは程遠い世界だなと苦笑する。
二番街は、商業を生業としている者たちがひしめき合う、活気にあふれた商いの街だ。ここに来れば、この世に存在するものであれば一通り何でも揃うとさえ言われている。焼きたての香ばしいパンの匂いから、頑丈そうな馬車、あるいは怪しげな魔導具まで、ありとあらゆる商品が店頭にずらりと並んでいる。ミツハが言っていた雑貨屋や、目的地である園芸屋も、この賑やかな二番街に軒を連ねていると聞いた。
三番街は、一般の労働者たちが肩を寄せ合って暮らす、■■でいうところのアパート団地や密集住宅地だ。異世界風にアレンジした松竹梅のランク分けがされたレンガ屋根の住居が、巨大な集合住宅となって果てしなく群を成しているらしい。
これらの情報は、ここ二番街に住居と店を構えて数年の歴史を持つミツハからの聞き伝の情報なので、どれも信憑性があるのは確かだった。「見知らぬ街は自分の足で歩いて散策するべし」という、前世のどこかで聞いたような言葉を、忘却しかけている記憶の底からふと思い出したことだった。
二番街のメインストリートを大股で歩けば、本当に多種多様な文化と店が立ち並んでいた。子供たちが群がるお菓子屋、鋭い鉄の匂いが漂う武器屋、威勢のいい声が響く肉屋に魚屋。そして目的の園芸屋。しかし、ミツハの言った通り、この世界には野菜を食べる文化そのものがないため、■■ならどこにでもある緑鮮やかな「八百屋」だけは、どこを探しても見当たらなかった。
そんなことを考えながら歩いていると、通りの一角に、土と植物の匂いが溢れる小さな園芸屋を見つけた。中に入ると、すぐに店番をしている女らしき獣人族の姿が目に飛び込んできた。彼女の頭の上には、可愛らしい茶色の猫耳が生えており、我の足音に反応してピコピコと動いた。
「いらっしゃいませアルヨ! 私はこの店の女店主、ツー・シンユェアルヨ!」
独特なカタコト混じりの言葉で、威勢よく声を掛けてきたのは、その猫耳の獣人族の女店主だった。この瞬間、我は彼女と今後、異世界の農業を通じて非常に長い付き合いになるとは、思いもしなかった。
店内をぐるりと見回せば、壁や棚には多種多様な農具が綺麗に並べられている。しかし、木札に書かれた値段を見て、我は思わず息を呑んだ。どれもこれも、銀貨3枚以上はする、今の我にとっては目玉が飛び出るほど値段が張るものばかりだったのだ。
「何かお探しでアルカ?」
棚の前で完全にフリーズして迷っている我に、店主のシンユェがすかさず愛想よく声をかけてくれた。我は小さく咳払いをして、返事を返す。
「あの……荒れ地を耕すための、鎌と鍬、それから軍手を探しているのですが……」
「なら、こちらのカマとクワのセットはどうアルカ!? 今新しく始める人に、セットでお買い上げになられる方がすごく多いんであるよ! なんといっても、このカマには【風属性】の魔力が付与されていて、どんなにしつこい硬い草も難なく一瞬で刈り取れるアルヨ! それに、こちらのクワには【土属性】の付与がされていて、地中の頑固な切り株を粉砕する効果が付与されている素晴らしい逸品アルヨ。どうっアルか?」
「……ものすごい性能ですね。でも、それ、お高いんですよね?」
我は恐る恐る尋ねた。シンユェはニヤリと髭を震わせ、
「本当なら金貨8枚もする高級品アルヨ。でも、今なら特別割引セールをやってるから、金貨5枚で買えるアルヨ!」
金貨5枚――それは、とんでもなく高額な数字だった。
いまミツハから当面の活動資金として渡されたのは、わずか銅貨10枚だけだ。銀貨すら持っておらず、銅貨しか持っていない今の我にとって、金貨などぐうの音も出ないほど高い、天の上の代物だった。
そもそも、ただの鎌と鍬に金貨5枚(本来は8枚)というのは、一種の初心者向けのぼったくり金額ではないのだろうか、という強い疑念が頭をよぎったが、異世界の相場が分からないため、その心の声をぐっと押し殺した。我は諦めず、もっと安い旧モデルがないか尋ねることにした。
「あの、魔法の効果とかがついていない、普通の旧式でもいいのですが、何かありませんか?」
「残念ながら、そういう旧式の農具セットはね、ちょっと前までは倉庫にあったのアルが、全部在庫処分という形で廃棄しちゃって、今は一丁も置いてないんですアルよー」
店主は申し訳なさそうに猫耳をへにょりと寝かせた。万事休すである。結局、我はその店で、魔法の付与も何もない、ただの丈夫な布でできた軍手を「銅貨6枚」で購入するのが精一杯だった。
その後も、少しでも安い道具がないかと散策がてらに近くの雑貨屋を数件ほど回ってみたが、どれもお高い代物ばかりで、銅貨数枚しか持たない我にはとてもじゃないが簡単に手が出せなかった。
「……はぁ。道具がないなら、今できる範囲のことだけでもやっとくしかないかなぁ」
人がまばらになってきたメインストリートの石畳を、重い足取りで引き返す。とりあえず軍手だけは買ったことだし、一度常盤木亭に帰宅することにした。ともあれ、残りの手持ちは銅貨4枚だ。これじゃあもう何も買えないしね。
街道の外れを歩いていると、ふと美しい花壇が目に留まった。
そこには、なんとか大陸という場所で《お花》の先導者として有名らしい「チータータナカ」さんという人物が、現実世界からわざわざ輸入してきたという、■■の花の数々が花壇から道端の隅々に至るまで、色鮮やかに咲き誇っていた。
「タナカさんがこの異世界に気付いたお花の文明、本当にすげーな……」
我は自分の貧弱な装備を思い返し、溜息をつきながら裏口へと急いだ。
仮住まいでもある常盤木亭のお家に帰ると、お店のカウンターで、豪快に水を飲んでいるミツハさんの姿があった。厨房での激しい炎の料理に体力を奪われ、喉が渇いているのだろう。これでもかというくらい大きなコップに一杯、そして二杯、という凄まじい次第で、水をがぶ飲みしている。確かに、あの熱気の中でずっと料理をしていれば、それくらい水分を欲するのも無理はない。我は彼女に声をかけた。
「いやー、ミツハさん。園芸屋にさっき出向いて開墾の道具を見てきたのですが、どれもこれも信じられないくらい値段が張りますねー」
我の言葉を聞いたミツハさんは、コップをドンとテーブルに置き、悔しそうに顔をしかめた。
「ですよね! 最近の市場の価格は本当におかしいのですよ。大した性能でもないのに、さも貴重な魔導具みたいに言って、ぼったくり価格で売りつけようとする悪徳な商人がのさばっていますからね。……あ、ジョニー先輩も水いる?」
【悪い商人ピックさん。100金貨を賄賂でどうたらこうたら。賞金首掛けられて逃亡中】
ミツハさんは、グイっとコップの残りの水を一気に飲み干すと、俺の隣の席に腰掛けた。こちらの返事を聞くよりも早く、黒エプロンを揺らしながら蛇口から冷たい水を注いでこちらに手渡してくる。
「ありがとうございます」
受け取って、渇いた喉に水をすすって飲む。驚いたことに、この異世界の水は非常に美味しかった。■■のどこかで飲んだ記憶のある、薬品臭い水道水よりも遥かに旨い、澄んだ天然水のような味わいだ。
少し息を整えてから、我はポケットから先ほど買ったばかりの軍手を取り出した。
「ぼったくり、ですか……。じゃあ、この軍手なんですけど、あそこの園芸屋で銅貨6枚で買わされたのですが、これもやはり……?」
ミツハさんは我が差し出した軍手をじっと見つめ、呆れたように盛大な溜息をついた。
「はぁ……。これ、どう見てもその辺の安物雑貨屋で銅貨1枚で買える普通の軍手ですよ。はっきり言いますが、ジョニー先輩、これも完全にぼったくりですね」
「はぁ、やっぱりそうでしたか……」
あまりの現実の厳しさにガックリと肩を落とす。ミツハさんは裏口の扉を親指で指さして、「どう? 進んでる? ヤサイ計画」と、少し心配そうに問いかけてきた。我はただ「いや全然」と苦笑いしながら切り返すしかなかった。
その時、店内の古い振り子時計の針がちょうど昼の12時を示し、同時に店の正面ドアが「チリーン」と小気味よい音を立てて開いた。二、三名のガタイの良い冒険者の集団客が、賑やかに入店してきたのだ。
「あ、いけない! こんなことしている場合じゃないわ。そそくさに注文を取りに行ってきます!」
ミツハさんはすぐに接客の顔になり、バタバタと厨房の方へ走っていく。しかし、振り返って「頑張ってね」と、ひっそりと優しい声で我に声をかけてお見送りしてくれた。
彼女の応援に背中を押され、我は再び裏口から通じるあの広大な空き地へと向かった。一歩外へ出ると、じりじりと照りつける太陽の下で、絶望的に荒れた畑(予定地)が我を迎え入れる。見ているだけで気が遠くなり、失せる気力。
しかし、雑草を撤去することは、畑の面積を確保することと同等、すなわち農業の第一歩だ。我は仕方なく、銅貨6枚(本当は1枚)の軍手を両手にしっかりと装着し、意を決してカヤツリグサの太い群れを掴んで引き抜き始めた。
「……くっ、思ったよりも根が深いな!」
一掴みの草を抜くだけで、指先に凄まじい抵抗が伝わる。
こんなとき、前世にあった強力な除草剤が一ビンでもあれば、このカヤツリどもを一網打尽にして根絶やしに出来るのだが。せめて手押し式の小さな耕運機でもあれば、こんな草どもを一網打尽に巻き込んで、一瞬で柔らかい耕地に出来るのだがな。しかし、いくら願っても現実にはない。夢はいつだって儚いものだ。我はただ、腰を曲げて泥臭く手を動かし続けた。
手作業での草取りを始めてから、気がつけば丸2時間が経過していた。
太陽の光はさらに強くなり、項をじりじりと焼き焦がす。しかし、周囲を見渡しても、一向に終わりの見えない閑散とした草取り作業が広がっているだけだった。軍手をはめた手で草を掴み、腰の力で引き抜く。
それはまさに、肉体と精神を摩耗させる「地獄」とも呼べる過酷な草むしりだった。一本の鎌があれば、一瞬で一網打尽に刈り取れるのだけれども、今の我にはこの軍手しかないのだ。
さらに我を苦しめたのは、カヤツリグサの合間に我が物顔でそびえ立つ、インキ草とも呼ばれる《ヨウシュヤマゴボウ》の存在だった。
巷では、その実から採れる強烈な紫色の液が染料の元となるため、一部では重宝されている雑草らしい。
しかし、農家の視点から言えば、ソレはただの悪魔の植物だ。茎は人間の手首ほども太く、根もしっかりと大根のように地中深くへ張っているため、大人の力で引っ張ったところで引き抜くのはまず不可能だ。仮に地上部分をへし折って刈ったとしても、宿根性の植物である以上、根が地中深くで息づいている限り、何度でもしつこく生えてくる。
除草剤があれば簡単に退治できるが、先ほど見た通り、そのような便利なものは園芸屋の一般棚には置いていなかった。
ふと、さっきの園芸屋で聞いた店主の小話を思い出す。
『お花を植える畑は、常に自分で綺麗にするか、それが無理ならギルド屋≪酔いどれホライゾン≫というところで【清掃の依頼】を出して、お金を払って綺麗にしてもらうかだアルよ』
結局は金だ。手持ちの銅貨が4枚しかない我には、冒険者を雇うなど夢のまた夢だった。
「ジョニー先輩、ご飯ですよー! って……あんまり進んでないのですね。ごめんなさい、次の休店日には私も絶対に手伝いますからぁ!」
裏口の扉が開き、ミツハさんの明るい呼ぶ声が響いた。我はその声で、ようやく地獄の作業から我に返る。
西の空が赤く染まり始め、何も進歩のないうちに一日が終わろうとしていた。今日の成果と言ったら、広大な荒れ地のほんの一角の、多少の草を引き抜いたということだけ。地中に埋まる頑固な切り株や、1メートル以上の巨大な草の処理は、やはりただの軍手だけでは物理的に無理があった。
「あ、ああ、ミツハさん。ここ、本当に荒れてますからねぇ……」
我は泥のついた軍手を見つめながら、苦笑いを浮かべた。
まあ、いいや。畑の開墾は一朝一夕にはいかない。明日は、初期装備として持っているあの『育苗箱』に、手持ちの夏野菜のタネを蒔こう。野菜作りには「種まきの時期(適期)を絶対に逃してはならない」という、何よりも絶対的な鉄則がある。苗を育てている数週間の間に、この荒れ地をどうにかして耕地へと変えればいいのだ。
我が胸の奥の農家魂は、まだ消えてはいない。
よし、明日こそが本当の勝負所だ。
つづく




