第15話 魔獣コントローラー
網膜の裏側に、システムログのような発光文字がチカチカと浮かび上がっている。
それは、私の意志とは無関係にこの狂った空間の「現在の座標」と「進捗」を示す絶対的なルールだ。
《ジョニー》-《■■■駅》⇒《???》
その文字の下には、現状の私のステータスが、剥き出しのバグのように歪みながら表示されていた。
解除された災厄:
虚数言語 level.2【CLEAR】
記憶 level.2【CLEAR】
買い物 level.2【CLEAR】
常闇状態解除 【9999999p】
時間固定解除 【500億p】
■■■の常設化 【未開放】
■■■■の営業 【未開放】
■■■の引き出し 【未開放】
■■■■■の利用 【未開放】
■■■……
数字の桁数が、あまりにもふざけている。常闇を解くだけで約一千万ポイント。時間の針をまともに動かすためには、五百億もの「何か」を支払わなければならないというのか。未だに文字が潰れて読むことすらできない『■■■』の機能群が、私を嘲笑うように不気味に沈黙している。
――そして、いつもの「それ」がやってくる。
ぐにゃりと空間が歪み、世界の色が失われた。
生ゴミが真夏の太陽の下で何週間も放置され、ドロドロに腐り果てたような、強烈極まりない下衆の匂いが辺りに■る。肺腑を直接侵食してくるような悪臭に、私は思わず胃液を逆流させそうになりながら口元を押さえた。
右を見る。
そこには、輪郭の曖昧な「黒い■」がうずくまっていた。
影は、錆びついた金属製のダストボックスから、ぬらぬらと光る汚物を掻き出しては、それを黒い指先で掴んで無造作に凝固した口の中へと放り込んでいる。
「おげ゛゛け゛げ――ッ!」
次の瞬間、影は激しく身悶えし、内臓ごと吐き出すかのような勢いで口にした汚物をぶちまけた。泥のような不純物が地面に散らばる。だが、影は何事もなかったかのように、再びその汚物を拾い上げ、口へと運び始めた。
咀嚼、嚥下、嘔吐。
終わりのない、支離滅裂な排泄の狂騒曲。
【ああ、そうだ。我は暗黒世界に、また来てしまったのか】
深い諦念が脳を支配する。
前回は、この狂った暗黒の底で【殺人事件の解決】などという不条理なゲームを強要され、その報酬として奇妙な猫の影《ホメ猫》が仲間になった。
今回は何が起こるか分からない。暗黒世界という場所は、論理的な思考を徹底的に破壊してくる、ただただ支離滅裂な悪夢の掃き溜めなのだ。
いつもなら、ここであのふざけた司会者の《先導者》田中三代目が、これまたふざけた調子で現れてゲームの開始を宣言するはずだった。
だが、今回は静かだった。
静寂が、かえって私の肌を粟立たせる。
不意に、うつむいて汚物を貪っていた黒い影の動きがピタリと止まった。
カチ、と世界が噛み合う音が聞こえた気がした。
黒い影たちが、一斉に首をあり得ない角度にねじ曲げ、そののっぺりとした顔をこちらへ向けてくる。
「……まぁ、これも。いつものここの演出なんだろうと思っていた」
私は冷や汗を流しながら、自己暗示のように呟いた。いつものグロテスクな演劇。脅かしの仕掛け。
しかし、今回は違った。
――ビュンッ!
空気を切り裂く、凄まじい風切り音。
黒い影の一体が、重力を無視して私の方へと弾丸のように飛来した。
何が起きたのか、脳が知覚するよりも早く、私の右足の付け根に、熱した鉄を突き刺されたような圧倒的な激痛が爆発した。
【ひぇ……我の、我の右足が……ッ!?】
悲鳴は、喉の奥で引き裂かれた。
私の右足が、太ももの付け根から根こそぎ千切られていたのだ。断面からドクドクと噴き出す鮮血が、暗黒世界の冷たいコンクリートを赤黒く染めていく。
残された左足で自分の体重を支える間もなく、バランスを激しく崩した私は、そのまま自らの血の海へと無様に崩れ落ちた。
「がああぁぁぁっ! あ、熱い、痛い、痛いぃぃ!」
のたうち回る私を囲むように、数体の黒い影がヌウッと近づいてくる。
彼らの手には、鋭利な刃物の光があった。いや、それは彼らの指先そのものが、銀色に光る解剖用のメスに変形しているのだ。
冷徹な作業のように、影たちの手が私の身体に這う。
右手、左手。
髪の毛を掴んで引きちぎられ、肋骨をこじ開けられて肺が引きずり出される。内臓が、まるで生鮮食品のようにバラバラに解体されていく。
溢れ出す血液と、撒き散らされる臓物。
地面が、私の肉だったもので真っ赤に染まる。
――信じられないことに、それでもまだ、私の意識はそこにあった。
痛覚が飽和し、肉体が消失していく感覚を、私の脳だけが克明に捉えている。
最後に、一際巨大な黒い影が、地面に転がった私の頭部を丸ごと、ひと飲みで噛み砕いた。
そこでようやく、すべての感覚と意識が、真っ黒な奈落へと途絶えた。
――生ゴミが腐ったような、強烈な下衆の匂いが■る。
気がつくと、私は再びその場に立っていた。
呼吸が荒い。心臓が痛いほど脈打っている。
右を見ると、黒い■がダストボックスから汚物を出しては、掴んで口の中に入れている。
おげ゛゛け゛げ。
吐き出し、そしてまた拾う。
【!?】
全身に鳥肌が立つ。触ってみた右足は、確かにつながっている。だが、あの千切られた瞬間の熱い痛みと、肉を切り刻まれた不快な感覚が、まだ神経の裏側に張り付いて剥がれない。
カチ。
影が一斉にこちらに目を向けてくる。
まぁ、■■■と思っていた。
【けれど】、今回【も】違った。
ビュンと影がこちらへと飛んでくる。何が起きたのかわからず、右足に激痛を覚えた。
肉が裂け、骨が砕ける音。
まただ。また、あの凄惨な解体作業が始まる。
メスが走り、血が噴き出し、内臓が飛び散り、意識が、呑み込まれる。
(略)
――生ゴミが腐ったような強烈な匂いが■る。
右を見ると、黒い■が、汚物を……。
【……、も、戻ってきたのか……?】
私は膝をつき、激しく喘ぎながらコンクリートの床を殴りつけた。
何度死んだ? 何度バラバラにされた?
だが、絶望に潰されている暇はなかった。私は、この死の円環が要求している「ルール(ギミック)」をようやく理解したのだ。
あの黒い影は、ただの舞台装置ではない。
明確な敵だ。
私を殺し、バラバラにするために配置された、倒すべき対象なのだ。
ならば、答えは一つしかない。
【《ホメ猫》、出てこいッ!!】
私の叫びに応じるように、手の平からぼわんと黒紫色の煙が立ち上る。
煙が凝縮し、不気味な猫の影の形をした《ホメ猫》がそこに召喚された。
それと同時に、周囲の影が一斉にこちらへと■を向けてくる。殺気が、皮膚を刺すように冷たい。
一体の影が、鎌首をもたげるようにして、こちらへと突進してくる。
【ホメ猫、迎撃せよ――】
【!”#$%&’(!Q$%&’(!Q#$%&’($%&’!#$%&ニャーニャォォォォォォォォォォォん】
鼓膜を破壊せんばかりの、バグり散らした電子音の雄叫び。
《ホメ猫》の身体がグニャリと引き伸ばされ、金属質の冷たい光沢を放つライフル銃へとその姿を急変させた。
銃口が影を捉える。
――スバババババ゛バババ゛バババハババババ゛ババババババババ゛ババ゛ババ!!
――ズババババババ゛゛゛゛゛ババババババババババ!!
激しい銃撃音が暗黒世界を震わせる。
《ホメ猫》の銃口から吐き出された、30mgスプリングフィールド弾が無数に黒い影の肉体を穿ち、蜂の巣にしていく。
影は断魔の叫びを上げることすら許されず、禍々しい紫色の瘴気を吹き出しながら、霧のように消え去った。
「はぁ、はぁ……やったか?」
だが、ここで気を緩めてはいけない。
一度目のループで、私は背後からの奇襲を知っている。
油断は大敵だ。次の攻撃に備え、神経を研ぎ澄ます。
背後に、冷たい風。
【《ホメ猫》、後ろだ!】
私の警告と同時に、《ホメ猫》がバネのように跳躍した。
その足は極限まで圧縮された弾機の如く、その腕はどこまでも伸びるゴムの如く。
私の頭上ではるかに高く舞い上がった相棒は、空中でその形態をさらに変形させる。それは、冷酷なギロチン、あるいは「巨大な処刑バサミ」と呼ぶのがふさわしい、凶悪な質量兵器だった。
迎え撃つ影もまた、その全身を蛇のように歪ませて跳ね上がり、《ホメ猫》と空中で激突する。
ガギィィィンッ!
火花が散り、処刑バサミの鋭い刃が、影の首を「ちょんば」と切断にかかる。
完全に真っ二つとまではいかなかったものの、首の八割が切り落とされ、影の頭部がぐらりと傾いだ。
勝った、そう思った。
しかし、ここで状況は最悪の方向へと転がり落ちる。
首を切り裂かれた影が、執念のように処刑バサミの刃をその黒い手で掴んだのだ。
ジジジ、と不快な溶解音が響く。影が触れたハサミの刃先から、ドス黒い「泥」のような浸食が始まり、《ホメ猫》の身体をみるみるうちに塗り替えていく。
影は、私の大切な相棒を、内側から浸食して奪おうとしているのだ。
【ぬふぁぅぇぉぬふぁぅぇぉゃぬふぁぅぇぉゃゅヌタファゥェォI‘’‘’‘’‘ニャャャャャャャャャャャャャャャャャャ】
バグった絶叫を上げる《ホメ猫》の身体が、黒い絵の具をぶちまけたように染まっていく。
脳裏に、最悪の仮定がよぎる。
もし、ここで《ホメ猫》が完全に浸食され、消えてしまったら――。
もし、異世界(もとの世界)に戻っても、もう二度と《ホメ猫》を呼べなくなってしまったら――?
「そんなの、絶対に認めない……!」
【そんなことはさせない!!】
私は、腰のホルダーから狂ったように「魔獣コントローラー」を引き抜いていた。
手の平に伝わる、メカニカルで冷たい質感。
私の脳と、コントローラーの電子基板が、目に見えない神経組織で直結したような錯覚。
想像しろ。業を、技を、奴を粉砕する嵐の軌跡を。
私の指先が、コントローラーのボタンを電光石火の速さで叩き込んでいく。
――右・上・下・×・×・〇。
【奥義:ダーク・サイクロン】
【!”#$%&’ニャァァァァァオン!!】
浸食に苦しんでいた《ホメ猫》の全身が、一瞬にして禍々しい漆黒のエネルギーを帯びて膨れ上がった。処刑バサミの形態から、今度は超巨大な猫の鉤爪へとその姿を変形させる。
そして、下から上へと、空間そのものを引き裂くような苛烈なアッパーカットを繰り出した。
ドォォォォンッ!
巻き起こる黒い竜巻が影を巻き込み、その肉体を完全に噛み砕き、ただの無害な瘴気へと還していく。
風が止む。
私の頭の中にあるイメージと、叩き込んだコマンドが、完全に《ホメ猫》の動きと同調した。
まさに、飼い主と飼い猫が、霊的な次元で一体となった瞬間だった。
後方からぞろぞろと湧き出てきていた他の黒い影たちが、今の圧倒的な一撃を目の当たりにし、慄いたように一歩、また一歩と後ずさりしていく。
――生き延びた。
そう確信した瞬間、辺りに不気味な煙が立ち込め、いつもの「お馴染みのパターン」がやってきた。
煙の向こうから現れたのは、煤けたガラス窓のついた、古びた公衆電話ボックスだった。
錆びついた扉を押し開ける。
ギギギと嫌な音を立てて開いたボックスの中に入り、受話器を持ち上げる。
■■■■
■■■■
■■■#
【まだ】、プッシュボタンの数字は黒い何かで塗りつぶされており、解読することはできない。
それでも、私は【知っていた】。
何度もここに通わされ、何度もこの不条理を生き延びてきた私の指先が、ボタンの位置を記憶している。
ボチボチ。ボチボチボチ、ボチ■■■。
押し込んでいく。
■■■■■。■■■。■■■■■。
適当に、いや、確信を持って、指の赴くままに番号の羅列を叩きつける。
――トゥルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルル。
――トゥルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルル。
――トゥルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルル。
静寂の中で、呼び出し音が響く。
三回ほどの呼び出し音の後、ガチャリと受話器の向こうで電話がつ■、がる。
『はい! こちらFKLネットワークサービスの《先導者チーター》田中三代目と申します。要件は解ります。災厄の解除ですね。なになに? 解・ら・な・い! !”#$%& ――おっと、失礼。私は現在、お客様が掛かっている呪いを打ち消したり、お客様のニーズに合わせた新サービスを提供できます。こちらからどうぞ。《農》POINTの利用は計画的に。アデュー』
一方的に喋り捲る軽薄な声が途切れると同時に、目の前の空間にノイズ混じりのホログラムディスプレイが投影され■。
所持:《1230農》POINT
災厄:
虚数言語 level.3【100p】
記憶 level.2【-p】
買い物 level.3【100p】
常闇状態解除 【9999999p】
時間固定解除 【500億p】
■■■の常設化 【未開放】
■■■■の営業 【未開放】
農POINTの引き出し level.1【-p】
《ホメ猫》の強化 level.1【800p】
魔獣コントローラー level.1【200p】
■■■■■の利用 【未開放】
■■■……
■■……
■……
このディスプレイを指でタップし、苦労して集めたポイントを消費してレベルを上げる。それが、この忌々しい電話ボックスの唯一にして絶対的な役割だ。
私は、迷うことなく画面をタップした。
――ピッ、ピッ、ピッ。
《虚数言語》がlevel.3に上がりました。
《買い物》 がlevel.3に上がりました。
《ホメ猫》が強化されました。
システムログが走り、頭の中に新しい「言語」と「ルール」が流れ込んでくる。そして、手元のコントローラーと《ホメ猫》の繋がりが、より強固に、より鋭敏に変化していくのを感じた。
◆ ◆ ◆ チャリーン ◆ ◆ ◆
【おめでとうございます】
【・魔獣コントローラーが使えるようになりました。】
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
所持:《1230農》POINT ⇒ 《30農》POINT
ガチャガチャと、硬貨が落ちるような重苦しい音を立てて、私の《農》POINTが減っていく。
千以上あったポイントは、一瞬にして「30」という微々たる数字にまで削り取られた。
だが、これでいい。
私は確かに強くなった。この不条理な地獄を生き残るための牙を手に入れたのだ。
受話器を置き、電話ボックスの扉を開ける。
足元にはもう、黒い影の姿はない。
「帰ろう、もとの世界へ」
私の主戦場、私の戦うべき場所。
あの熱狂と、血の匂いに満ちたコロシアムが、我を待っている。
(つづく)




