第8話:静寂の「ステイ」
数日後。二人は商業の大動脈を支える中継都市、グランバザールの冒険者ギルド支部の扉をくぐった。
「おい、あのおっさん……勇者パーティで荷物持ちになったレオンじゃねえか?」
「なんであんなツノの生えた不気味な黒い犬を連れてるんだ? ドミネイトなんて使えたのか?」
暖房の効いた広いロビーには、遠征帰りの冒険者たちの冷笑が満ちている。
その喧騒を割って、一人の女性が凛とした足取りで歩み寄ってくる。
国家監査局の監査官、シルヴィア(22歳)
リプレイン聖王国最高峰の魔術教育を首席で修め、中部の魔獣事故処理を統括する冷徹なエリート官僚だ。
完璧にシワ一つ許されない紺色の制服に身を包み、その腰には魔獣の危険度を測定する国家最高峰の魔力水晶が輝いている。
「レオンさんですね。勇者アルベール様より、あなたの能力不足による除名届を受理しています。それにしても、その後ろの従魔は未登録ですね、そちらも速やかに処理を――」
クロにゆっくりと近づきながら話すシルヴィアの言葉が、肉体的に凍りついた。
彼女の腰の魔力水晶が、内側からパキパキと不気味な音を立てて黒く濁り――次の瞬間、粉々に砕け散ったのだ。
「な、何事ですか……っ!?」
飛び散る水晶の破片が甲高い音を立てて転がる。
国家指定の鑑定水晶のオーバーフローによる自壊。
目の前の愛らしく尻尾を振る黒い犬が、この国をいつでも気まぐれに滅ぼせる程の天災級の力を持つという事実の証明だった。
シルヴィアは無様にその場に腰を抜かしてしまう。
「おい、不気味な犬を連れて突っ立ってんじゃねえよ!」
レオンの背後から、その騒動を見ていた屈強な冒険者が大剣を抜いて怒鳴った。
それを合図に、ロビーにいた数十人の手練れたちが一斉に武器を構え、剥き出しの殺気を向ける。
その殺気に、クロの野生が反応してしまう。
ラブラドールの愛らしい潤んだ瞳が、一瞬で爬虫類などが持つ縦スリットの『竜の眼』へと変貌する。
周囲の気圧が物理的に数十ヘクトパスカル低下し、石畳の床がミシミシと悲鳴を上げた。クロの背後から立ち上る、空間そのものをドロリと歪めてしまう漆黒の魔力。天災と言われる黒竜による、絶対的な死の予兆。
武器を構えていた冒険者たちは、絶望的な恐怖に心臓を掴まれたように硬直した。
誰もが、数秒後に自分の肉体が分子レベルで消滅することを本能で確信してしまったのだ。
だが。
――パチリ!
完全に死の静寂に包まれた空間に、あまりにも場違いな、クリッカーによる軽快な金属音が響いた。レオンの右手の中からだ。
「クロ、ステイ」
レオンの声には、怒りも、焦りも、恐怖もなかった。
ただ、朝の挨拶を交わすかのような、明確で平坦な指示。
その瞬間、世界を灰にするはずだった漆黒の圧力が、嘘のように霧散した。
クロは「あ、いけない」という顔をして、すぐさま鋭い目を丸い犬の目に戻し、その場にペたんと「待て」の姿勢をとった。
周囲への申し訳なさを示すように、尾を床にパタパタと打ち付けてレオンを見上げている。
「よし、いい子だ」
――パチリ!
レオンが再度クリッカーを鳴らし特製おやつを与えると、クロは無邪気に喜んだ。
周囲の戦慄と、クロの無邪気さの異常なギャップが、ギルド全体を呼吸も忘れるほどの静寂に陥れた。
「あなた、自分が何を連れているか分かっているのですか! すぐにその魔獣を――!」
取り乱して命令口調になったシルヴィアに対し、レオンは極めて冷静に促した。
「――失礼ですが、不躾に指示を出される前に、まずはお互いに自己紹介をするのが礼儀ではないでしょうか」
「……わ、私は国家監査局監査官のシルヴィアです」
「レオンと申します。シルヴィア監査官、白銀の獅子の件ではお手数をおかけします。どうぞお見知りおきを」
自然かつ初対面としての緊張感がある自己紹介が、崩壊しかけたロビーの空気を僅かに繋ぎ止めた。だが、街を襲う真の混乱は、まだ終わってはいなかった。」
補足説明
・魔力水晶
特徴:国家指定の鑑定用魔道具。
機能:対象の魔力量や危険度を測定する。魔力結晶より精度が高く、測れる魔力容量も大きい




