第54話 決して消えない希望の炎
レオンが真実を看破し、解決への道筋を示してから数日。
ルカの戦いは、泥濘を這い進むような過酷な足踏みを続けていた。
「う、ぐっ……オェッ……げほっ、ごふっ……!」
スラムの広場の片隅で、ルカは何度も泥の上に這いつくばっては、胃液を吐き出していた。
レオンの教えた『系統的脱感作法』……バディの心音に同調し、リラックスを条件付けるという理論は完璧だった。
だが、ルカの脳と骨の髄まで染み込んだ『気を抜けば殺される』というスラムのトラウマは、本能の領域に分厚い壁となって立ち塞がっていた。
バディの鼓動に耳を澄ませ、ほんの少しでも身体の緊張を解こうとすれば、背後に悪意ある誰かが立っているような強烈な幻覚と悪寒が走り、自律神経が悲鳴を上げて視界が歪んでしまうのだ。
「……ちくしょう、なんでだよ。なんで俺は、こんなにビクビクしてんだ……!」
ルカは悔しさに顔を歪め、泥だらけの拳を地面に何度も叩きつけた。
三食のご飯を食べられるようになっても、レオンやシルヴィアという強力な大人が守ってくれていても、自分の中にある怯えた孤児の魂だけが、どうしても書き換えられない。
そんな行き詰まり、心が折れそうになるルカの元へ、年長組の三人が近づいてきた。
「痛っ!?」
ルカの背中を、大きな手がバンッ! と無骨に、しかし励ますように強く叩いた。
振り返ると、燃えるような赤毛を短く刈り込んだザックが、腕を組んで仁王立ちしている。
「馬鹿野郎、なに一人で落ち込んでんだ。俺たち、生まれてからずっと魔法なしで生きてきたんだ。たった数日で世界が変わってたまるか」
ザックの乱暴だが、ルカの努力を絶対に否定しない肯定の言葉に、ルカは目を丸くする。
続いて、前髪が長く目が隠れがちな艶のない黒髪を揺らし、ダボダボの作業着を着たニコが無言で歩み寄ってきた。
ニコはポケットから使い古した清潔な布を取り出すと、ルカの泥と涙にまみれた顔をゴシゴシと乱暴に拭った。
「……ほら、少し休んで」
最後に、癖のない栗色の髪を綺麗な三つ編みにまとめたマリアが、そっと温かい白湯の入った木の実の殻を手渡してくれる。
彼らは「可哀想に」といった大袈裟な同情は一切しない。
ただ、ルカの足掻きを認め、スラムで肩を寄せ合ってきた家族としての温もりを、行動で示し続けてくれた。
(俺は……一人じゃない)
白湯の温もりが、冷え切ったルカの胃の腑に染み渡っていく。
バディの心音。クロの気配。レオンの導き。シルヴィアの祈り。そして、仲間たちの不器用な優しさ。
過酷な日々の足踏みの中で、ルカの無意識下にこびりついていた『世界は敵だらけだ』という強烈な防衛本能は、彼らとの確かな絆によって、少しずつ、けれど確実に雪解けのように溶けていった。
そして、運命の二週間目の夜。
雲の切れ間から顔を出した満月が、スラムの広場を青白く照らし出していた。
ルカはバディの首に腕を回し、静かに目を閉じていた。
(トクン……トクン……)
シアンブルーの水玉レッグウォーマーを巻いたバディの右前足越しに、力強く安定した心音が伝わってくる。
不思議と、その時は背後を恐れる恐怖はなかった。
背中を叩いてくれたザックの手の痛みが、ニコが拭いてくれた布の感触が、マリアの白湯の温もりが、ルカの身体を分厚い毛布のように包み込んでいる。
『世界は敵だらけじゃない。ここは、俺たちの帰る場所だ』
ルカの身体から、長年彼を縛り付けていた過緊張の強張りが、スッと抜け落ちた。
教本が強いるように、魔力を理性で『支配』して無理やり押し引きするのではない。
ルカは胸の奥の熱の塊を、バディの鼓動に合わせて、自然な血流にただ優しく『溶け込ませた』
――チカッ。
ルカの身体の中で、何かが完璧に噛み合う音がした。
巡らせた魔力をゆっくりと引かせる(オフにする)のではなく、身体の中で呼吸をするように淀みなく『循環』させる。
防衛本能の反発はない。吐き気も、耳鳴りもしない。
ルカがゆっくりと目を開けると、彼の利き手である右腕全体に、内側からパンッと張り詰めるような強靭なしなやかさが宿っていた。
ただ手のひらが光るだけではない。
泥だらけだったルカの利き手が、温かく力強い『オレンジ色の光』をハッキリと帯びていた。
血管を通って魔力が筋肉繊維の隅々にまで行き渡り、身体強化の魔法が、完全にルカの意志の下で制御された瞬間だった。
「ワオォォォォォォンッ!!」
ルカの成功を本能で悟ったバディが、夜空に向かって歓喜の遠吠えを上げた。
その声を聞きつけ、広場の隅にある隠れ家から、寝ていたはずの孤児たちが次々と飛び出してきた。
ポンチョを被りアッシュグレーのボサボサ髪を揺らすアニータが、信じられないものを見るように口元を覆う。
キャスケット帽を被った明るい茶髪でそばかす顔のジャンと、日焼けした肌に金髪ツーブロックを輝かせるリオが、顔を見合わせて大きくガッツポーズをした。
黒髪ボブと泣きぼくろが特徴のクロエが涙ぐみ、丸眼鏡を紐で固定した七三分けの細身のマルコが、眼鏡を押し上げながら興奮気味に息を吐く。
鼻水を垂らし寝癖のついた薄茶髪のティムと、パッチワークのワンピースで金髪巻き毛を弾ませる小さなリリィが、「ルカ兄ちゃん光ってる!」と無邪気に跳ね回った。
ザック、ニコ、マリアも走り寄り、全員が光を放つルカの利き手を取り囲んだ。
「すげえ! ルカ、お前すげえよ!!」
「やった、やったわねルカ!!」
爆発的な歓声が、暗く沈んでいたスラムの夜を突き破る。
みんなが笑い、泣き、ルカの肩を叩いて揉みくちゃにする。
バディもちぎれんばかりに尻尾を振って子供たちの間を駆け回った。
ルカは利き手に宿る温かいオレンジ色の光を見つめ、大粒の涙をポロポロとこぼしながら、誰よりも無邪気な笑顔を弾けさせた。
才能がないと絶望のどん底に落とされ、エリートの教本に肉体を破壊された少年。
だが彼は、知識という新たな武器と、決して裏切らない家族の絆によって、その残酷な壁を自らの足で乗り越えてみせた。
魔法至上主義の冷酷な世界で、スラムの子供たちが初めて自分たちの手で掴み取った『決して消えない希望の炎』が、誇り高く燃え上がっていた。
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