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無能と蔑まれた装備職人、実は【動物行動心理学】の天才でした〜天災と呼ばれるドラゴンを現代知識でしつけたら、ただの角が生えた犬になりました〜  作者: マーゴン
⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎勉強編

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第53話 : スラムに通用しない知識

「ルカ!? しっかりしなさい、ルカ!!」

広場の冷たい泥の上に倒れ込み、激しく身体を痙攣させるルカを抱きかかえ、シルヴィアは金切り声を上げた。

衣服を泥で汚すことなど今の彼女の頭にはない。

ルカの小さな胸が不自然なほど激しく上下し、喉の奥から「ひゅう、ひゅう」と壊れた笛のような悲鳴が漏れるたび、シルヴィアの顔からは血の気が引いていった。

完璧なはずだった。

魔術学院の最高峰の講師たちから授かり、自身も首席を維持し続けた教本通りの、最も安全とされる初歩の制御コントロール

それがなぜ、これほどまでに目の前の少年を無残に破壊しているのか、彼女の頭では理解が追いつかなかった。

「シルヴィアさん、少し離れて。背中を丸めさせると気道が塞がって余計に苦しくなります」

背後から、大地の重みを感じさせるほど落ち着いた声が響いた。

ハッと振り返ると、木箱を片付け離れたところで見守っていたレオンが足早に近づいてくるところだった。

彼の隣には、シアンブルーに大きな白い水玉模様のフード付きセーラーベストを揺らしたクロが、金色の瞳に深い憂いを湛えてぴたりと寄り添っている。

「レ、レオンさん……! 私は、教本通りに……ゆっくりとオンとオフを切り替えさせただけなのに……!」

シルヴィアは震える手でルカの肩をさすりながら、すがるようにレオンを見上げた。

「クロ、水を」

「ミャッ」

レオンが短く指示を出すと、クロは小さな身体を翻し、木箱の脇に置いてあった革製の水袋の紐を器用に口で咥えて持ってきた。

レオンはそれを受け取ると、ルカの衣服の胸元を大胆に引きちぎるようにして緩め、冷たい水を少年の顔にそっと含ませて泥と胃液を濯がせる。

「シルヴィアさん、あなたの教え方は間違っていません。きちんと学んだ訳ではありませんが理論としては極めて正統なはずです」

レオンはルカの首筋に指先を当て、激しく暴れ狂う脈拍を測りながら、静かに、しかし確信に満ちた口調で告げた。

「ただ、その魔法の教本は、生まれた時から安全で温かい部屋で育ち、明日の命を脅かされることのない『貴族の生徒たち』を前提に作られている。……それが、この悲劇の原因です」

「貴族を、前提に……? どういうことですか……?」

シルヴィアは息を呑んだ。

「ルカはあなたとの契約のおかげで、毎日三食きちんと食事を摂るようになり、肉体的な栄養や体力は確実に満たされつつあります。だからこそ、魔力を全身に巡らせる『オン』の段階までは耐えられた。問題は、それを元の塊に戻す『オフ』の瞬間です」

レオンは苦しげに顔を歪めるルカの額に手を当て、汗を拭った。

「スラムという極限の環境で生き抜いてきた彼らの脳の奥底には、気を抜けば野犬に噛み殺され、悪意ある大人に搾取されるという強烈な防衛本能が、骨の髄まで染み込んでいる。魔力を帯びた緊張状態から、意図的に身体を無防備な状態へと緩めようとした瞬間、彼の生存本能が『力を抜くな、殺されるぞ!』と最大級の警鐘を鳴らしたのでしょう」

レオンの言葉が、シルヴィアの脳髄を貫いた。

「理性は『オフにしろ』と命令する。けれど骨に染みついた本能は『オンのままでいろ』と肉体を縛る。

相容れない二つの命令がルカの狭い体内で正面衝突を起こし、自律神経のすべてを焼き切ってしまった……いわば、自己支配セルフドミネイトの矛盾による、猛烈な自家中毒です」

「自家、中毒……。私の知識が、ルカを……」

シルヴィアは自身の白く細い両手を見つめ、絶望に身体を震わせた。

彼女が誇りとしてきた奇麗な教本の知識は、スラムの少年を救う盾になるどころか、その生き抜くための本能と激突し、内側から引き裂く刃になっていたのだ。

「悲観する必要はありません、シルヴィアさん。理屈が分かれば、対処法はある」

レオンの言葉に、ルカの霞む視界が微かに動いた。

「無理やり自分の身体をドミネイトしようとするから本能が反発するんです。必要なのは、理性による抑え込みじゃなく、本能に対して『ここは安全だ』と教え込む、リラックスの条件付けです。……バディ、おいで」

レオンが優しく手招きをすると、広場の隅で心配そうに耳を伏せていたバディが、泥を跳ね上げながら駆けてきた。

その右前足には、クロのベストの端切れで作られた、シアンブルーの水玉模様のレッグウォーマーがしっかりと巻かれている。

バディはルカの元へたどり着くと、レッグウォーマーの巻かれた足を不器用に折り曲げ、ルカの身体に寄り添うようにしてその場にドサリと伏せた。

「ルカ、僕の声が聞こえるかい」

レオンはルカの耳元に顔を寄せ、言い聞かせるように語りかける。

「魔法の事は一旦すべて忘れなさい。バディの胸に耳を当てて、この大きくて、温かい心拍リズムに自分の呼吸をシンクロさせるんだ。系統的脱感作法の応用だよ。犬の安定した鼓動を身体にトレースして、過緊張を少しずつ解きほぐしていくんだ」

(バディ、の……鼓動……)

ルカは震える両手で、バディの温かい首元にしがみついた。

トクン……トクン……トクン……。

シアンブルーのレッグウォーマーから伝わってくる、力強く、何の手停滞もない、あまりにも真っ直ぐな命の拍動。

ルカはそのリズムに合わせて、浅く乱れていた呼吸をゆっくりと、必死に整えようと試みた。

しかし、スラムという底なしの泥濘がルカの心身に刻み込んだトラウマは、あまりにも深く、あまりにも強固だった。

バディの心音に意識を集中させようとしても、ひとたび魔力の残滓が身体を巡れば、すぐに背後から誰かに襲われるような強烈な幻覚と恐怖が脳裏をよぎり、身体がビクッと跳ねてしまう。

そのたびに凄まじい目眩がルカを襲い、喉の奥から苦い胃液がせり上がってきた。

「う、ぐっ……オェッ……げほっ、ごふっ……!」

「ルカ! 無理をしないで!」

シルヴィアが涙を浮かべて叫ぶ。

レオンの提示した理論は完璧だった。だが、それをルカの肉体が受け入れ、長年培われた防衛本能を書き換えるには、あまりにも泥臭く、気の遠くなるような『時間』が必要だったのだ。

一度壊れた自律神経のバランスは簡単には戻らない。

ほんの数歩、魔力を体内で動かしては、激しい吐き気と頭痛に襲われて泥に這いつくばる。

そんな絶望的な足踏みの、血を吐くような『過酷な二週間』の幕が、今、静かに上がろうとしていた。


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