第52話 : 響く希望の音色
スラムの乾いた広場に、かつてないほど純粋で、飢えたような熱を帯びた眼差しが集まっていた。
泥や煤にまみれた地面に直接座り込む孤児たちの視線の先には、ひっくり返した即席の木箱の上に立つレオンの姿がある。
彼の足元では、かつて右前足に負った大怪我を保護するためにレオンが作ってくれた、シアンブルーの水玉模様のレッグウォーマーを身につけたバディが、嬉しそうに尾を振ってお座りをしていた。
さらにレオンのすぐ傍らには、バディのレッグウォーマーと同じ生地で作られた、大きな白い水玉模様があしらわれた『フード付きセーラーベスト』を誇らしげに着こなした漆黒の相棒、クロがちょこんと座り、金色の瞳で子供たちを静かに見守っている。
「魔獣とのコミュニケーションで一番大切なのは、彼らの言葉を持たない世界を、僕たちが『理解』してあげることだ」
レオンの穏やかな、しかし不思議と隅々までよく通る声が広場に響く。
第一回、『動物行動心理学』の青空教室の開幕だった。
「前回、僕がロックトータスにクリッカーを鳴らして、おやつをあげたのを覚えているかな? あんなに頑なで、何をしても甲羅に閉じこもっていた強固な魔獣が、僕たちの指示に従って動いてくれたよね」
子供たちが一斉に、激しく首を縦に振る。
あの光景は、彼らの泥まみれの人生を一変させるほどの衝撃だったのだ。
レオンは右手に持った、小さな金属の板がついた器具を親指で弾いた。
――カチッ。
鋭く乾いた音が静かな広場に響く。
その音が鳴った刹那、レオンは左手に隠し持っていた特製おやつ(じっくり乾燥させた干し肉)の欠片を、素早くバディの口元へ差し出した。
バディはレッグウォーマーを巻いた右前足を嬉しそうにトントンと弾ませ、美味しそうにそれをハグハグと咀嚼する。
クロも隣で「ミャッ」と短く鳴き、バディの頭を毛づくろいするように前足で軽く叩いた。
「この『カチッ』という音自体には、魔獣を縛る魔法の力なんて一滴もない。だけど、音が鳴った直後に、必ず大好物という『報酬』がもらえる。それを何度も繰り返すことで、彼らの脳の中に『あの音が鳴る=最高に嬉しいことが起きる』っていう強固な方程式が出来上がるんだ。これを心理学で『条件付け』と呼ぶ。前回のロックトータスも、今のバディも、みんな同じ原理なんだよ」
レオンは優しく腰を落とし、バディの耳の後ろを愛おしそうに掻いてやった。
「恐怖や痛みを与えるドミネイトは、彼らの心を暴力で叩き壊して、無理やり従わせているだけだ。でも、この『正の強化』……相手にとってのメリットを提示する方法なら、魔獣は自分の意志で、喜んで僕たちに力を貸してくれる。言葉が通じなくても、正しい法則を学びさえすれば、僕たちは誰だって彼らと心を通わせることができるんだ」
魔法という絶対的な暴力を前提とした世界の常識を、あまりにも鮮やかで優しい論理が、根底から塗り替えていく。
ザックは、拳が白くなるほど膝を強く握りしめていた。
マリアは隣のアニータの手をぎゅっと握り、二人の瞳には大粒の涙がたまっている。
不合格という烙印を押されたはずの自分たちが、今、世界の最先端の知恵を授かっている。
その猛烈なカタルシスに、子供たちの胸は高鳴り、誰もが一言も聞き漏らすまいと瞬きすら忘れてレオンの言葉を脳裏に刻みつけていた。
少し離れた、崩れかけの赤レンガ塀の影。
密着監視任務中のシルヴィアは、制服のポケットから取り出した手帳に、羽ペンを猛烈な勢いで走らせていた。
国家監査官としてあらゆる嘘や不正を暴いてきた彼女にとっても、レオンの紡ぐ言葉は、帝国の根幹を揺るがしかねない、けれどあまりにも美しい未知の学問だった。
「――それじゃあ、今日の授業はここまで。みんな、自分の仕事に戻るときも、周りの動物たちの動きをよく『観察』することを忘れないでね」
レオンが優しく微笑み、木箱から降りる。
「ありがとうございました、レオン先生!」
広場に割れんばかりの歓声と感謝の声が響き渡り、孤児たちがそれぞれの持ち場へと散っていく中、ルカは胸を高鳴らせながら、小走りでシルヴィアの元へと駆け寄った。
「シルヴィアさん!」
「ルカ。今日の授業も、本当に素晴らしかったですね。……おや、どうしました? そんなに目を輝かせて」
シルヴィアが手帳をしまい、ふわりと屈み込んで目線を合わせると、ルカは泥と煤のついた両手を、自慢するように彼女の目の前に突き出した。
「俺……見つけたんだ。一週間、ずっと暗闇の中で耳を塞いで、じっと探して……やっと、自分の奥にある、熱の塊を捕まえたんだ!」
ルカが深く息を吸い込み、胸の奥の静寂に意識を向ける。すると、彼の手のひらの皮膚のすぐ下から、チカチカと淡いオレンジ色の光が、小さな蛍のように優しく明滅を始めた。
「あっ……!」
シルヴィアは息を呑み、アメジストの瞳を限界まで見開いた。やがて、その端正な面に、まるで初夏の花が咲き誇るような、心からの美しい笑みが浮かぶ。
「素晴らしいわ、ルカ。本当に、よく一人でその孤独と恐怖を乗り越えましたね」
彼女は愛おしそうに、ルカの細い髪を白く柔らかな手で優しく撫でた。
「あなたの肉体は、確実に魔法の力に追いつこうとしています」
「うんっ……!」
大好きな人に認められた。その事実だけで、ルカの胸の奥はちぎれそうなほど熱くなる。
「では、さっそく次のステップへ進みましょう」
シルヴィアはスッと表情を引き締め、かつて魔術学院の座学で首席を維持し続けたエリートとしての、凛とした威儀を正した。
「見つけた魔力の塊を、全身の血管に沿って、ゆっくりと押し広げるのです。大気に放出したり、魔法を発動させたりする必要はありません。体内に留めたまま巡らせ、そしてまた、元の胸の奥へと引き戻す。この魔力のスイッチを、決して急ぐことなく、『ゆっくりと確実に、オンとオフに切り替える』のです。素早い制御は暴走を招きます。自分の『理性』の力で、肉体を完璧にコントロールしなさい」
「ゆっくり、確実に……オンと、オフ……」
ルカは真剣に頷き、その場に真っ直ぐ立ち尽くしたまま目を閉じた。
胸の奥で燻る、あの小さな熱の塊に意識の照準を合わせる。
それを、シルヴィアの言葉通り、ゆっくりと、優しく全身の脈動へと溶け込ませ、押し広げていく。
(オン……!)
ジワリ、と手足の指先、耳の裏にまで、心地よい熱の波が広がっていく。
魔力は暴走することなく、ルカの体内の内壁を優しく満たし、留まっていた。
ここまでは完璧だった。
身体がほんのりと温かくなり、心地よい万能感すら覚える。
「そうです、驚くほど筋が良いわ。……では、次はゆっくりと、その魔力を引かせなさい。オフにするのです」
(オフ……)
ルカは張り詰めていた意識のピントを緩め、全身に巡らせた熱を、再び胸の奥の檻へと引き戻そうとした。
身体の緊張を解き、ただ静かにリラックスさせようとした、その瞬間だった。
――ドクンッ!!!
ルカの心臓が、内側から肋骨を叩き割るかのような狂暴な一撃を放ち、全身の肉体がビクンと激しく痙攣した。
「あ……、がっ……!?」
頭では「力を抜け、引き戻せ」と理性の命令を下しているのに、ルカの全身の筋肉と細い血管が、強烈な拒絶反応を起こしてそれを全力で突っぱねたのだ。
シルヴィアの教え、すなわち魔術学院の教本は、何不自由なく安全で守られた環境で育った「貴族の生徒たち」を前提として作られている。彼らにとって、命令一つで身体をリラックスさせることなど、呼吸をするよりも造作もない日常だ。
だが、ルカは極限のスラムを生き抜いてきた孤児だ。
シルヴィアとの契約で三食の食事を与えられ、肉体的な栄養は満たされつつあっても、彼の脳の最深部、生存本能の領域には『一瞬でも気を緩めれば、野犬に噛み殺される。
悪意ある大人に殴り殺される』という、血の滲むような過緊張の防衛本能が、深く刻み込まれている。
魔力を帯びた警戒状態から、意図的に身体を無防備な状態へと緩めようとした瞬間、彼の奥底に眠る獣のような本能が『バカ野郎、力を抜くな! 殺されるぞ!』と最大級のパニックを引き起こしたのだ。
理性と、骨に染みついた生存本能が、逃げ場のないルカの狭い体内の中で、音を立てて真っ向から激突する。
それは、教本が強いる『理性による自己支配』という傲慢な論理がもたらした、最悪の矛盾だった。
「あ、ぐっ……ひうっ、ぁあああッ!!」
一瞬で、自律神経のすべてが完全に崩壊した。
視界が、遊園地の絶叫遊具から頭から引きずり落とされたかのように上下左右に激しく反転し、明滅する。耳の奥では、巨大な鉄の鐘を至近距離で連打されているかのような、頭蓋骨を揺らす凄まじい耳鳴りが爆発した。
胃袋を、冷たい鉄の手で直接鷲掴みにされ、雑巾のように力任せに絞り上げられるような猛烈な嘔吐感がこみ上げる。口の奥に、どろりとした鉄の錆びたような血の味が広がった。
「ルカ!? どうしたのですか、ルカ!!」
シルヴィアの、悲鳴のような金切り声が遠くの霧の彼方で聞こえた。
だが、ルカの身体はもはや彼自身の意志を、悲しいほどに何一つ受け付けなかった。
「オェッ……ゲホッ、ごふっ、かはっ……!!」
ルカは膝から無様に崩れ落ち、広場の冷たい泥の地面に額を擦りつけながら、激しくえずいた。
全身の細い筋肉が、自分の意志とは無関係にピクピクと不気味に痙攣し続け、指先一つ動かすことすらできない。
「しっかりしなさい、ルカ! 魔力を手放して、呼吸を!!」
顔面を蒼白に染めたシルヴィアが、泥まみれのルカを必死に抱き起こし、震える手で何度もその小さな背中をさする。
しかし、体内で起きている『本能の拒絶反応(自家中毒)』の嵐は、どれだけ背中をさすろうとも、全く収まる気配を見せなかった。
ようやく、一週間かけて見つけた希望の光。
それを操ろうとした瞬間に立ちはだかった、あまりにも残酷で、あまりにも強固な『生存本能』という名の壁。
それは、エリートの常識が詰まった綺麗な教本をどれだけ捲ろうとも、決して解決策の載っていない、暗く深い絶望の淵だった。
ルカはただ、冷たい泥の中に塗れ、霞んでいく視界の中で、血の混じった荒い息を吐き続けることしかできなかった。
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