第51話 : 静寂の奥に潜む熱
スラムの広場から少し離れた、人目のつかない裏路地。
じめじめとしたカビの匂いと、微かな土埃が漂う薄暗い空間で、監査局の仕立ての良い制服を着たシルヴィアが、ルカと向かい合って立っていた。
彼女の足元では、大型の野犬であるバディが静かにお座りをして、二人の様子をじっと見守っている。
「まずは、自分の中にある『魔力』の在処を探り、感じることから始めます」
シルヴィアのアメジストの瞳が、真剣な光を帯びてルカを見つめる。
まずはルカの中に眠る魔法の才能を自覚させなければならない。
彼女は自身が尊敬していた講師を思い出しながら言葉を紡ぎ始めた。
「ルカ。魔力とは、目に見えないもう一つの臓器のようなものです。……実は私、魔術学院に通っていた頃、実技試験は常に落第ギリギリでした」
「えっ……? シルヴィアさんが?」
ルカが驚いて目を丸くする。美しく、何でも完璧にこなすトップ監査官の口から出た「落第」という言葉が信じられなかったのだ。
シルヴィアは自嘲気味に、少しだけ目を伏せた。
「私には、この国が最も重宝するドミネイトの適性がありました。ですが、その力を外に放出しようとすると、暴走するか、霧散してしまう。どうしてもコントロールすることができず、魔法を扱う職を諦めて監査官の道を選んだのです」
彼女は自身の白く細い手を見つめ、ギュッと拳を握りしめる。
「ですが……魔力を『感知する』ことにかけては、座学を含め、学院の誰にも負けませんでした。だからこそ、私が初めて魔力を見つけた時の感覚を、そのままあなたに伝えます」
シルヴィアはルカの目の前に歩み寄り、目線を合わせるように屈み込んだ。
「いいですか。外界のノイズを完全に削ぎ落として。目を閉じ、両手で耳を強く塞ぎなさい。そして、自分の心音と、呼吸の切り替わる隙間にある『静寂』に意識を同調させるのです。言葉で教えられるのはここまでです。さあ、やってみなさい」
ルカはこくりと頷き、目を強く瞑って、泥だらけの両手で自分の耳を塞いだ。
――瞬間、世界から一切の音が消え失せた。
風がトタン屋根を揺らす音も、遠くで響くスラムの喧騒も、何も聞こえない。
薄く目を開けると、目の前にいるシルヴィアの美しい唇が動き、何か励ましの言葉をかけてくれているのが分かった。
しかし、その声は全くルカには届かない。
絶対的な無音と、暗闇。
スラムという暴力と悪意が渦巻く場所で生きてきた孤児にとって、目と耳を塞ぎ、周囲への警戒を完全に解くという行為は、本能が警鐘を鳴らすほどの強烈な『恐怖』だった。
すぐに背筋が粟立ち、冷や汗が噴き出す。
ルカは息を荒くして、たまらず耳から手を離してしまった。
「……はぁっ、はぁっ……!」
「ルカ。怖がることはありません。私とバディがあなたを守っています。一度ゆっくり深呼吸をして、落ち着いたらもう一度」
シルヴィアの静かだが力強い声に背中を押され、ルカは再び耳を塞ぐ。
トクン、トクン。
自分の脈打つ血の音が、耳の奥で不気味なほど大きく響く。
その鼓動の隙間にあるはずの『静寂』を探ろうとするが、焦りと恐怖で心拍数は上がり続け、魔力など到底見つけられそうになかった。
初日の訓練は、ただ己の恐怖心に打ちのめされるだけで終わった。
それから、一週間。
ルカの泥臭く、孤独な戦いが続いた。
彼は日中のパトロールや雑用の合間を縫っては、広場の隅や隠れ家の暗がりで、幾度となく目を閉じ、耳を塞いだ。
音が消えるたびに、背後から誰かに殴られるのではないかという幻覚に怯え、身体がビクッと跳ねる。
やはり自分は無能なままで、魔法の才能など見間違いだったのではないかという黒い疑念が、胃の腑を重く沈ませていく。
しかし、その過酷な孤独の中で、ルカを現実の温かい世界へと繋ぎ止めてくれる確かなものがあった。
――バディだ。
ルカが耳を塞ぐたび、バディは必ず彼の側に寄り添い、その大きな身体をピッタリと押し付けてきた。
無音の世界に閉ざされても、太ももから伝わってくるバディの体温と、一定のリズムで上下する呼吸の振動が、「俺がお前を守っているぞ」と語りかけてくれているようだった。
その体温を感じるたびに、ルカの肩から少しずつ、確実な強張りが抜けていった。
そして、一週間目の夜。
隙間風が吹き込む廃屋の隠れ家で、他の孤児たちが寝静まった後。
ルカは暗闇の中で胡座をかき、ゆっくりと耳を塞いだ。
バディがいつものように、ルカの膝に顎を乗せる。
ルカは深く息を吸い込んだ。
トクン、トクン。自分の血の音が聞こえる。
だが、もう恐怖はなかった。
バディの温もりに守られながら、ルカは自分の内側へと深く、深く潜っていく。
(鼓動と、鼓動の間……。息を吸って、吐き出す、その切り替わりの一瞬……)
心拍が落ち着き、全身の感覚が研ぎ澄まされていく。
外界のノイズを削ぎ落とし、恐怖を乗り越えたからこそ辿り着けた、完全なる静寂。
その真っ暗な世界の底に――ぽつり、と。
小さな、けれど確かな『熱の塊』があるのを見つけた。
「あっ……!」
ルカが思わず目を開け、耳から手を離す。
震える両手をそっと胸の前にかざすと、泥だらけの手のひらの上に、チカチカと淡いオレンジ色の光が小さな蛍のように明滅していた。
「ワフッ!」
ルカの変化に気づいたバディが、嬉しそうに短い声を上げて尻尾を振る。
小さな小さな光。
しかしそれは、一週間の暗闇と恐怖を自らの足で乗り越え、自らの手で掴み取った、ルカにとっての確かな『希望の炎』だった。
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