第50話 無知という鎖を断ち切るために
スラムの広場を吹き抜ける風が、埃っぽい土の匂いと微かな冷気を運んでいく。
つい先程までは日々の糧を求める喧騒と、どうせ何も変わらないという諦めが入り混じっていたその空地は今、水を打ったような静寂と、直後に弾けた異様な熱気に包まれていた。
「ほら、簡単でしょ? 相手の行動をよく観察して、正しいタイミングで報酬を出す。それだけで、言葉が通じなくても意志は繋がるんだ」
レオンの穏やかな声が響く。
彼の足元では、かつて狂暴な野犬として恐れられたバディが、ちぎれんばかりに尻尾を振りながら嬉しそうにビスケットを頬張っていた。
魔法による強制など一切使われていない。
ただの『知識』と『観察』だけで、人間と獣が深い信頼関係で結ばれている。
その信じがたい事実を目の当たりにした孤児たちの反応は、劇的だった。
ザックは、力強く握りしめた両拳を小刻みに震わせていた。
煤にまみれた顔の中で、見開かれた瞳だけがひどく熱を帯びている。
マリアの隣に立つアニータは、ボロボロの袖口で何度も何度も溢れる涙を拭っていた。悲しいのではない。
先日の試験で「魔法が使えない無能」という烙印を押され、一生泥水をすするしかないと諦め切っていた彼女たちの根底にあった巨大な絶望が、音を立てて崩れ去ったのだ。
「魔法がなければ魔獣を扱えないというのは、この世界が勝手に作り上げた思い込みに過ぎない」
レオンは子供たちの熱を帯びた瞳をぐるりと見渡し、力強く宣言した。
「……来週から週に一回、このスラムの広場で僕が授業をしてあげよう。魔獣と心を通わせるための『動物行動心理学』の青空教室だ」
その言葉が落ちた瞬間、広場に割れんばかりの歓声が響き渡った。
ザックが天を仰いで叫び、マリアがアニータを抱きしめて跳ね回る。
暗く淀んでいたスラムの広場に、明確な『学びの場』が誕生した瞬間だった。
少し離れた崩れかけのレンガ塀の影。
密着監視の任務中であるシルヴィアは、熱狂の中心にいるレオンと、その隣で決意に満ちた表情を浮かべるルカの姿を静かに見つめていた。
プラチナブロンドの髪を風に揺らしながら、彼女のアメジストの瞳に柔らかい光が宿る。
脳裏にフラッシュバックするのは、帝都から帰還した直後、ルカと交わした契約の情景だった。
『国家監査局 特務情報提供者 雇用契約書』
少し高級な羊皮紙に仰々しい飾り文字で記されたその書類は、シルヴィアが用意した「優しすぎる嘘」だった。
スラムで生きるルカが、誇りゆえにただの施しを決して受け取らないと分かっていたからこそ、「毎日三食食べること」「危険な喧嘩は避けること」といった条件を情報提供の対価にすり替え、お小遣いを渡すための大義名分として作ったものだ。
字が読めないルカに、シルヴィアが手を取ってサインの仕方を教えた時のことだ。
ルカは『自分のサインが恥ずかしくないように』と別のいらない紙をもらい、泥だらけの小さな手でペンを握りしめ、何度も何度も、懸命に自分の名前を綺麗に書こうと練習していたのだ。
(……あんなにも、健気で)
思い出すだけで、シルヴィアの胸の奥がギュッと締め付けられるように熱くなる。
監査官としての論理や搾取の構造への怒り以上に、ただ純粋な感情が彼女を満たしていた。
彼は学ぶ意欲に溢れている。
無知という鎖を取り払ってあげたい。
もっと色々な世界があることを、たくさんの知識を、私自身の手で教えてあげたい――。
疑似家族的な母性にも似たその温かい感情が、エリート官僚の彼女を、「教育者」へと目覚めさせていた。
「それじゃ、今日はここまで。工房に戻って授業の準備をしないといけないからね」
レオンが立ち上がり、衣服の砂を払いながら孤児たちに告げた。
「ありがとうございました、レオン先生!」
孤児たちが口々に感謝を叫ぶ中、レオンは軽く手を振って広場から歩み去ろうとする。
シルヴィアもまた、監視任務に戻るべく壁から背中を離した。
「なあ、ルカ」
その時、興奮冷めやらぬ輪の中で、ザックが不意に声を上げた。
「お前もさ、テイマー試験の会場で、適性だけでも見てもらえばよかったのにな」
マリアも同調するように頷く。
「そうね。ルカはずっとシルヴィアさんの特務助手として動いてたから、試験を受ける暇もなかったものね」
孤児たちにとって、年に一度の適性検査は人生が一変するかもしれない唯一の宝くじだ。
それを逃したルカを案じる言葉に、思わずシルヴィアも足を止める。
しかし、ルカは迷うことなく首を横に振った。
「ううん。たとえ時間があっても、俺は受けなかったよ」
ルカの声は、年齢に似合わないほど静かで、確かな芯が通っていた。
「俺にはレオン兄ちゃんがいるし、バディもいる」
足元のバディが「ワフ」と短く鳴き、ルカの手に鼻先を擦りつける。
「ドミネイトなんて……魔獣に無理やり痛みを与えて従わせる残酷な力なんて、最初から欲しくない。だから、あんな試験を受ける気はなかったんだ」
魔法の才能などなくても、知識と絆で生きていく。
その確固たる覚悟の言葉が、夕暮れの広場に凛と響き渡った。
「――ならば、私がここで見ましょう」
歩み出ようとしていたレオンの背中が止まり、振り返る。
声の主は、レンガ塀から歩み出たシルヴィアだった。
彼女は孤児たちの輪の中に進み出ると、腰に下げている、大人の拳ほどの大きさの透明な石を取り出した。
「シルヴィアさん……それは?」
「監査局から支給されている『魔力水晶』です。
これに触れることで、魔力の有無や適性を調べることができます」
シルヴィアはルカの目の前で歩みを止め、少し身を屈めてその水晶を差し出した。
「魔法に頼らず生きるというあなたの覚悟は、立派です。ですが、『自分が何を持っているか』を知ることは、これからのあなたの選択肢を広げるための武器になります。……触れてみなさい」
目の前に差し出された魔力水晶に、ルカは小さく息を呑んだ。
ザックやマリア、そしてバディもが、固唾を飲んで見守っている。
レオンもまた、数歩戻って静かに頷いてみせた。
ルカはごくりと唾を飲み込み、ズボンで泥だらけの手を一度拭うと、恐る恐る、その澄み切った魔力水晶に両手を添えた。
ひんやりとした冷たい感触が伝わってくる。
一秒、二秒。
……何も起きない。
やはり自分はただの無能なのだ。その事実にホッとしたような、けれどひどく冷たい諦めが胸をよぎり、ルカが手を離そうとした、その瞬間だった。
――トクン。
水晶の奥底で、心臓の鼓動のような淡い光が明滅した。
チカッ、チカチカッ。
最初は蛍の光のように弱々しかったそれは、ルカの手のひらの熱に呼応するように、次第に力強い橙色の光を放ち始めたのだ。
「……え?」
ルカが間抜けな声を漏らす。
周囲の孤児たちが息を呑む音が、静まり返った広場にはっきりと聞こえた。
バディが不思議そうに「キュゥ?」と首を傾げる。
シルヴィアは、信じられないものを見るように目を細め、やがて水晶から放たれる光の波長を確認して、小さく震える声で告げた。
「ルカ……あなたには、魔法の才能があります」
「オレ、に……?」
「ええ。光の色と強さからして……これは間違いなく『身体強化』の適性です」
魔法の力など初めから存在しないと、知識だけで這い上がると覚悟を決めたその日。
運命の歯車が、残酷なほど劇的に、そして唐突に噛み合った。
自分の手のひらから溢れる未知の光を見つめながら、ルカはただ、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
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