第49話:常識を砕く希望の音
スラムの広場は、淀んだ泥と埃の匂いが混じり合う、特有の重い空気に沈んでいた。
無許可で増改築されたバラックの影が落ちる広場の片隅。
先日のテイマー適性検査で不合格の烙印を押された五人を中心に、孤児たちは冷たい地面に力なく座り込んでいた。
「……結局、俺たちは一生この泥水の中を這いずり回るしかねえんだ」
燃えるような赤毛を苛立たしげに掻き毟り、腕や顔の古傷を歪ませているのは、十六歳のザックだ。
荒っぽいが面倒見の良い兄貴分である彼が、今は血の滲んだ拳を握りしめ、地面を睨みつけている。
その隣で、目が隠れがちな艶のない黒髪を揺らし、ダボダボの作業着に身を包んだ十四歳のニコが、「……ん、無理だ」とボソボソと力ない声で呟く。
ニコの背中に隠れるように縮こまっているのは、くすんだ灰色のボサボサ髪を大きめのポンチョで覆った十三歳のアニータだ。
他者の痛みに敏感な彼女は、怯えたように自分の膝を強く抱え込んでいる。
さらにその後ろには、明るい茶髪にそばかす顔、トレードマークのキャスケット帽を深く被った十二歳のジャンと、日焼けした肌に金髪のツーブロックが特徴的な腕白坊主、十歳のリオの姿があった。
普段はスラムを駆け回る元気な二人も、今は生きる気力を失った虚ろな目をしている。
「みんな、そんなに下を向かないで……」
癖のない栗色の長い髪を三つ編みにした十八歳のマリアが、痛ましそうに彼らの背中を順番に撫でた。
彼女はこのスラムの孤児たちの『母親代わり』だ。
日々の飢えでガリガリに痩せ、肌も荒れているが、その瞳だけは常に弟妹たちへの深い愛情に満ちている。
だが、今の彼女にもかけるべき慰めの言葉が見つからなかった。
そんな年長組の絶望を、年少の子供たちが不安げに囲んでいる。
泣きぼくろが特徴的な黒髪ボブカットの九歳、クロエは、重い空気に耐えきれず今にも泣き出しそうだ。
濃い茶髪を七三に分け、度の合わない丸眼鏡を紐で固定している八歳のマルコは、スラム一の計算が得意な頭脳派だが、今はただ俯いて黙り込んでいる。
くしゃくしゃの薄い茶髪で常に鼻水を垂らしている七歳の泣き虫ティムが、不安そうにマリアの服の裾をぎゅっと掴む。
唯一、透き通る金髪の巻き毛を持つ七歳のリリィだけが、天使のような無邪気な笑顔で「みんな、お腹すいたのー?」と小首を傾げていた。
恐怖心という概念を持たない彼女の天真爛漫さが、かえってこの「才能の壁」という世界の残酷な現実を浮き彫りにしていた。
「いつまで下向いてんだよ、お前ら」
不意に、頭上から聞き慣れた声が降ってきた。
顔を上げると、そこには泥と煤にまみれたサイズの合わない古いチュニックを着たルカ(十一歳)の姿があった。
くすんだ金髪の無造作な癖毛の下で、真っ直ぐな瞳がザックたちを見下ろしている。
彼の後ろには、お気に入りの水玉レッグウォーマーをつけた相棒である狼爪斑のある灰色の毛並みをした中型魔道犬、バディが静かに寄り添っていた。
「ルカ……お前には分からねえよ」
ザックが力なく首を振った。
「俺たちは、水晶を光らせることもできなかった、才能なしの泥ネズミだ。あの貴族のガキが言った通り、魔法がなきゃ魔獣も扱えない。一生、誰かに使われるだけの家畜なんだよ……」
「だから、それがただの思い込みだって言ってんだろ」
ルカは苛立ち交じりにザックの言葉を遮ると、広場の中央へと顎をしゃくった。
「顔を上げろ。お前らに、会わせたい人がいる」
ルカの言葉に促され、孤児たちが重い首を巡らせる。
そこには、ゆっくりと近づいてくる巨大な影があった。
ズシン、ズシンと地面を揺らして現れたのは、大人が数人乗れそうなほどの巨体と、岩のように分厚く硬い甲羅を持つ温厚な荷馬獣――ロックトータスだ。
そして、その巨大な魔獣の首のすぐ傍を、一人の男が歩調を合わせて歩いていた。
落ち着いた焦げ茶色の無造作な髪に、静かな黒曜石の瞳。仕立ての良い上質な作業着を身に纏い、肩には不釣り合いなほど巨大なカバンを背負っている。
右手の指先には、長年針を握り続けたことを示す分厚い「職人のタコ」があった。
年齢は三十七歳。
特権階級の魔法使い特有の、あの人を威圧するような傲慢なオーラが、彼からは一切感じられない。
どこか枯れたような、それでいて森の木陰のように穏やかな佇まいを持つ『おじさん』だった。
そして、そのおじさんの足元には、気品と艶のある漆黒の短毛を持つ美しい魔獣――シアンブルーに大きな白い水玉模様のフード付きセーラーベストを着たクロがぴったりと寄り添っていた。
頭部に小さな二本の角が生えている以外は、人間界の犬そのものの姿をしたその魔獣は、見知らぬスラムの子供たちを前にしても一切警戒することなく、嬉しそうに尾を振りながら男を見上げている。
「……誰だ、そのおっさん」
警戒心を露わにし、後ずさろうとするザックたち。
そんな彼らに対し、男――レオンは、ゆっくりと歩み寄り、彼らと同じ目線になるようにその場にしゃがみ込んだ。
「初めまして、私はレオン。ルカから話は聞いているよ」
その口調は、スラムの孤児に対する憐れみでも、貴族のような見下したものでもなく、ただ純粋に対等な相手へ向けられる柔らかいものだった。
「才能がないから、魔獣を扱えない。……そうやって絶望しているそうだね」
「……当たり前だろ! 魔力もねえのに、あんなデカい魔獣に近づいたら殺される!」
ザックが噛み付くように叫ぶ。
広場で見た、ロランの無様な失敗とグリフォンの暴走。
自分自身の血筋を過信して拙いドミネイトを試みて失敗し、思い通りにならない苛立ちから魔獣の顔を棒で叩き、結果として本能的な殺意を爆発させてしまったあの惨劇が、ザックの脳裏に焼き付いている。
だが、レオンは怒ることもなく、微かに微笑んだ。
「そうだね。魔法で無理やり縛り付けたり、思い通りにならないからといって棒で叩かれたら、君たちだって嫌だろう?恐怖を与えたら、魔獣はいつか必ず爆発する。それは魔法の才能がないからじゃない。やり方が間違っているだけなんだ」
レオンは立ち上がり、巨大なロックトータスの方へと向き直った。
「魔法がなければ魔獣を扱えないというのは、この世界のただの思い込みに過ぎない。私がそれを、君たちに教えてあげよう」
レオンは杖も持たず、魔力も一切練り上げることなく、無防備な姿のまま巨大な魔獣の顔の正面へと歩み寄った。
「危ねえっ!」
ザックが思わず叫び、アニータが悲鳴を上げて目を覆う。
しかし、次の瞬間。
パチリ!
薄暗いスラムの広場に、澄んだ金属音が響き渡った。
レオンの手の中に握られた小さな金属板――クリッカーが鳴ったのだ。
同時に、レオンはポケットから特製のおやつを取り出し、ロックトータスの口元へスッと差し出した。
それは、旨味成分が極限まで濃縮された干し肉だった。
「おお、いい子ですね」
ロックトータスは、その巨体からは想像もつかないほど嬉しそうな低い喉の鳴らし声を上げ、レオンの手のひらに硬い鼻先をすり寄せながら、自らの意志で楽しげに干し肉を頬張った。
同時に、足元にいたクロも「パチリ!」という音に反応し、レオンを見上げてピシッとお座りの姿勢をとった。
レオンがもう一つのおやつをクロの口元へ運ぶと、クロは幸せそうに喉を鳴らしてそれを受け取る。
恐怖もない。苦痛もない。ドミネイトによる強制的な支配など微塵もない。
そこにあるのは、己の行動による報酬を理解し、自発的に人間の指示に応えようとする、魔獣の穏やかで幸福な姿だけだった。
「……え?」
ザックの口から、間の抜けた声が漏れる。
ジャンもニコも、目を丸くして固まっていた。
魔獣の痛みに敏感なアニータに至っては、信じられないものを見るように両手で口を覆い、目を見開いて震えている。
先日、広場で見たロランの姿と、あまりにも対極だった。
魔力が通じないからと暴力を振るい、魔獣の神経を逆撫でして暴走させた特権階級。
それに対し、目の前のおじさんは魔法も暴力も一切使わず、ただ小さな音と食べ物だけで、巨大な魔獣と完璧に心を通わせているのだ。
「魔獣には心がある。痛みを恐れ、喜びを求める、私たちと同じ生き物なんだ」
レオンはロックトータスの首筋を優しく撫でながら、振り返って孤児たちを見た。
「恐怖で縛るのではなく、正解を教えて報酬を与える。この『知識』と『知恵』さえあれば、暴力的な魔法なんて、ただの不便な道具にすぎない」
その言葉は、世界から「無能」と見捨てられ、泥水をすするしかないと絶望していた彼らの心を、根底から激しく揺さぶった。
絶対的だと思っていた特権階級の魔法が、ただの歪んだ「思い込み」に過ぎないのだと、目の前の男が完璧な論理と結果をもって証明してくれたのだ。
「私が、魔法の力に頼らない『知識』という最強の武器の扱い方を教えてあげよう」
レオンの穏やかな黒曜石の瞳が、ルカを含めた孤児たち十一人を真っ直ぐに見据える。
「――稼ぐ努力をするつもりはあるかい?」
その瞬間。
ザックの、マリアの、そして孤児全員の死んだ瞳の奥底に、決して消えることのない熱い炎がボッと燃え上がった。
魔法至上主義の残酷な世界に抗うための、最強の武器を手に入れた日。
スラムの泥ネズミたちが、特権階級の常識を喰い破るための『青空教室』が、今ここに静かな、しかし確かな産声を上げたのである。
お読みいただきありがとうございます!ページ下部の【☆☆☆☆☆】から星を入れて応援していただけると、毎日の執筆の最大の励みになります!リアクション、コメント、ブックマーク大歓迎です!




