第48話:偶像が微笑む礼拝堂
グランバザールの裏通り。喧騒から切り離されたようにひっそりと佇む小さな教会の礼拝堂は、冷ややかな静寂に包まれていた。
色褪せたステンドグラスから、午後の柔らかな光が埃を透かして床に落ちている。
細々と運営されているこの教会の長椅子には、人影はまばらだ。
その最前列、祭壇の前に置かれた簡素な木椅子に、エレノアは静かに腰掛けていた。
彼女の姿は、あまりにも痛ましかった。
雪山で負った生々しい傷跡が、透き通るような白い肌を無惨に横断している。
首筋には赤黒い痣が残り、細い腕には幾重にも包帯が巻かれていた。
彼女は「奇跡」と呼ぶべき、特別に強い治癒魔法を行使できる。
にもかかわらず、自身の身体は自然治癒に任せるしかなく、ボロボロのまま放置されていた。
彼女の身体には、特異体質とも言える「呪いのような自衛の防御魔法」が常にかかっているのだ。
皮肉なことに、自身に向けられる治癒魔法の効果すらも『外部からの魔力干渉』として強固に弾き、軽減もしくは無効化してしまうのである。
かつて『白銀の獅子』として大断絶山脈の過酷な環境に挑んでいた時も、彼女は本人が気づかない内に本能で自衛を最優先し、力をセーブし、常に自分の身を第一に選択してきた。
その異常なまでの保身の行動が歪み、先のレオンに対する行動にまで繋がってしまっていた。
「聖女様……」
少し離れた場所で控えていたシスタークレアが、痛々しい主の姿に胸を痛め、祈るように両手を組む。
その後ろでは、重騎士ボイドと女騎士カレンが、物言わぬ彫像のように静かに主君を見守っていた。
ドン、ドン、ドン!
不意に、教会の重い木扉が切羽詰まった音を立てて叩かれた。
カレンが警戒しながら扉を細く開けると、強い血の匂いが礼拝堂の静気を切り裂いた。
「助けて、助けてください……っ! 夫が、荷馬車の下敷きに……!」
泣き叫ぶ女性の腕に抱えられるようにして、一人の男が運び込まれてきた。
泥にまみれた日雇い労働者の男は、右足の骨が完全に砕け、衣服は赤黒く染まっている。
顔面は激痛で青ざめ、浅く荒い呼吸を繰り返していた。
この小さな教会には、時折こうして高額な治療院に行けない貧しい人々が、藁にもすがる思いで駆け込んでくるのだ。
「お願いです、この人が死んだら、私たち家族は……!」
床に崩れ落ち、泥だらけの額をこすりつけて懇願する妻。
その悲痛な叫びを聞き、エレノアはゆっくりと立ち上がった。
アルベールたちに引っ張られる形で歪み、驕り昂ぶっていたかつての彼女の面影は、そこには一切ない。
魔竜の圧倒的な恐怖と、レオンから突きつけられた極限の屈辱。
それに耐えきれず心が完全に壊れた彼女は、幼い頃から徹底的に叩き込まれてきた『聖女としての理想の行い』という強固な殻に引きこもり、ただそれを忠実に繰り返すだけのロボットと化していた。
「……大丈夫ですよ」
エレノアはにこやかに微笑みながら、血だまりの中に膝をついた。
泥と血に汚れた男の砕けた足に、一切の躊躇なく白く細い両手をかざす。
妻の悲痛な訴えを、彼女は静かに、ただ穏やかな笑みを浮かべたまま聴き入れた。
そして、彼女の手のひらから黄金の光が溢れ出した。
それは、教会関係者以外には固く秘匿されている、人智を超えた『奇跡の力』。
暖かく、圧倒的な純度を持った高位の治癒魔法が男の足を包み込むと、皮膚を突き破っていた骨が信じられない速度で繋がり、裂けた肉が音もなく塞がっていく。
「あ……あぁ……っ」
男の喉から、激痛から解放された安堵の吐息が漏れた。
数秒前までぐしゃぐしゃに砕けていた右足は、傷跡一つ残さず完全に元通りになっていた。
「嘘……痛みが、ない……」
「あなた……! あぁ、神様、聖女様……!」
驚愕のあまり言葉を失う男と、狂ったように涙を流し、エレノアの足元に平伏して感謝を叫ぶ妻。
その熱を帯びた劇的な感情の爆発を前にしても、エレノアの表情はミリ単位で一切崩れなかった。
彼女は首の角度、口角の上がり方、瞬きの回数に至るまで、完全に計算し尽くされた聖女のプロトコルを稼働させる。
そして、一切の感情が宿っていない透明な声で、ゆっくりと励ましの言葉を紡ぎ始めた。
「嘆くことはありません。あなたの流した血と涙は、天に届きました。この癒しの光は、あなたが日々を誠実に生きた証なのです。さあ、涙を拭いて。その健やかな足で、再び愛する家族の待つ家へお帰りなさい」
それは、完璧なまでに美しい慈愛の言葉だった。
定型文のように出力されたコミュニケーション。
彼女の瞳の奥はガラス玉のように虚ろで、何の熱も帯びてはいない。
「神の御加護があらんことを」
にこやかな微笑みと共に紡がれたその一言で、エレノアは静かに手を胸の前で組んだ。
涙を流しながら何度も何度も振り返り、深々と頭を下げて教会を後にする夫婦。
その背中を見送るエレノアの首筋には、治癒魔法に弾かれた痛々しい痣が、依然として青黒く残ったままである。
「……聖女様。本日のご休息の時間を過ぎております。どうか、お身体を」
クレアが歩み寄り、恭しくハンカチでエレノアの手についた血を拭う。
奇跡の力を行使しながらも、自らは痛々しい傷を負ったまま微笑み続ける主の姿。
クレアや騎士たちの目には、その異常性が「己の身を顧みず人々の痛みに寄り添う、至高の聖女の姿」として映っていた。
「ええ、ありがとう。クレア」
エレノアは、先ほどの夫婦に向けたものと全く同じ、寸分違わぬ完璧な微笑みをクレアに向けた。
ひっそりとした小さな教会。しかし、彼女が機械的に奇跡を行使し続けることで、この静かな礼拝堂に訪れる信者は、少しずつ、しかし確実に増え続けていた。
空っぽの心が演じる、完璧な聖女の箱庭。
自らを癒やすことのできない「呪い」を抱えた少女は、誰にも真実に気づかれることなく、狂信の泥濘へと静かに沈んでいく。
だが、彼女の虚ろな瞳の奥には、救われた人々の純粋な涙と笑顔が、静かに、そして確実に蓄積されていた。
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