第55話 広場に運ばれた未来
ルカが過酷な魔法訓練を乗り越え、確かな光を掴み取った翌朝。
スラムの乾いた広場に、ガストン商会の立派な荷馬車が何台も連なって到着した。
荷馬車の前に立つ大商人ガストンは、毎朝一万歩の散歩を続けている成果で以前よりずっと身軽になった身体を張り、集まってきたスラムの住人や孤児たちを見渡し、大きく息を吸い込んだ。
彼はこれまで、スラムの子供たちが悪徳テイマーや元締めに中抜きされ、使い捨てられていく現状を「そういう世界だ」と半ば黙認してきた。
しかし、レオンと共に歩むと誓っているガストンは、彼が何も持たない子供たちに真摯に向き合う姿を見て、それを応援する事に決めた。
更に泥に塗れながらも必死に学び、変わろうと目を輝かせる孤児たちの姿を間近で見て。
そのひたむきな熱は、商人の、いや一人の大人としての魂を強く揺さぶるには十分すぎたのだ。
「皆、聞いてくれ! レオン殿の考案した『マルチフィットサスペンションキャリア』は、現在商会に莫大な利益をもたらしている。私はその利益の『一部』を、慈善活動としてこのスラムの環境と治安改善に還元すると決めた!」
ガストンのよく通る声に、広場がどよめく。
「食料の配給だけではない。今日からガストン商会が直接、お前たちを『正規の清掃員荷運び人』として雇用する! 元締めのピンハネはないと約束しよう。誰もが平等に働けるよう、毎日人を入れ替えるローテーション制にし、正当な日当をその日のうちに全員へ支払うと約束しよう!」
その宣言の意味を理解した瞬間、スラムの住人たちから地鳴りのような歓声が上がった。
孤児たちも抱き合って喜ぶ。
それは単なるお恵みではなく、彼らが初めて「正当に評価される労働者」として社会に認められた瞬間だった。
歓声に包まれる広場に、次々と物資が運び込まれていく。
「ミャッ!」
「ワフッ!」
重い資材の運搬を手伝うのは、シアンブルーに大きな白い水玉模様があしらわれたフード付きセーラーベストを着こなしたクロと、右前足にお揃いの水玉レッグウォーマーを履いたバディだ。
彼らは魔法で無理やり従わされる獣ではなく、自身の身体に合わせたキャリアを装着し、誇り高きパートナーとして見事に荷物を運んでみせる。
荷台から降ろされたのは、広場の中心に据えられる巨大な特注の黒板。
そして、孤児たち一人一人に手渡されたのは、鼻をくすぐる真新しい紙の匂いがするノートと、硬く滑らかなペンだった。
ザックもマリアも、震える手でその『未知の道具』を胸に抱きしめている。
「みんな、席について! スラムの貴重な労働(生活)の時間を奪うわけにはいかないから、授業は九十分を二回、きっちり集中して行うよ!」
レオンの声で、第一回の本格的な青空教室が幕を開けた。
最初の九十分のコマは、レオンによる『動物行動心理学』だ。
レオンは白墨を手に取り、黒板にコンコンと小気味よい音を立てて犬の図解を描いていく。
魔獣が不安な時に見せる微細なサイン(カーミングシグナル)についての論理的な解説。
孤児たちは、もらったばかりのノートに必死にしがみつき、慣れない手つきで懸命に「メモ」を取ろうとペンを走らせた。
あっという間に九十分が過ぎ、熱気冷めやらぬまま二コマ目が始まる。
レオンと入れ替わり、黒板の前に立ったのはシルヴィアだった。
「ここからの九十分は、私が『読み書きと算術』を教えます。……ルカ、前に出なさい」
名前を呼ばれたルカは、緊張で肩を強張らせながら黒板の前に進み出た。
シルヴィアは優しく微笑み、真っ白な白墨をルカの泥だらけの小さな手に握らせる。
「まずは、文字の第一歩。あなたの名前を、ここに書いてごらんなさい」
ルカはゴクリと唾を飲み込み、黒板に向き直った。
シルヴィアから以前教わった直線を思い出しながら、震える手で白墨を押し付ける。
カツ、カツ、カツ……。
静まり返った広場に、不器用だが力強い白墨の音が響き渡る。
黒板に浮かび上がったのは、歪で、いびつな『ルカ』という文字。
しかしそれは、スラムの泥水の中でただ日陰者として生きてきた少年が、「俺は確かにここに存在している」という確かな証明を、生まれて初めてこの世界に刻み込んだ証だった。
「よくできました、ルカ」
シルヴィアの拍手を皮切りに、広場中から温かい拍手が沸き起こる。
ルカは白墨で白く汚れた手を握りしめ、振り返って満面の笑みを浮かべた。
搾取されるだけの地獄だったスラムに、大人の良心と、学びという名の未来が、確かに根付いた瞬間だった。
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