第45話:音なき救出劇
スラムのさらに奥深く。
光すら届かない廃棄されたレンガ造りの倉庫群には、ヘドロと腐敗した生ゴミの強烈な悪臭が立ち込めていた。
「……ここか、バディ」
月明かりの届かない死角で、ルカは息を殺した。
お気に入りの水玉レッグウォーマーをつけて傍らに伏せる灰色の魔道犬バディが、低く唸る代わりに鼻先でルカの膝をツンと突く。
微かな泥の匂いに混じる、幼い子供の『涙と恐怖の匂い』
それが、この崩れかけた第十三倉庫の内部から漂っているという確かな合図だった。
ルカは胸ポケットの奥、分厚い羊皮紙の感触を確かめるように布越しに撫でた。
シルヴィアたち国家監査局の到着を待っていては、間に合わない。
人攫いどもが少女を別の場所へ移送するか、あるいは最悪の事態を引き起こすまで、あと数分というところだろう。
(でも、シルヴィアさんとの契約がある。『第三項。危険な喧嘩は絶対にしないこと』……)
ルカは口角をわずかに上げ、スラムの野良猫のような不敵な笑みを浮かべた。
戦わなければいいのだ。
暴力に頼るから怪我をする。
力で劣る子供が、大人の男から力ずくで奪い返そうとするから「喧嘩」になる。
相手に気づかれず、ただ落とし物を拾うように攫ってくれば、それは喧嘩にはならない。
(俺が行く。バディ、お前は外で見張っててくれ。中から誰か出てきたら、吠えずに足首を狙え)
視線の交錯だけでバディが深く頷く。
ルカは音を完全に殺し、倉庫の裏手へと回り込んだ。
そこには、大人の男では肩がつかえて絶対に通り抜けられない、換気用の小さな鉄格子の破損部があった。
常に腹を空かせ、痩せ細ったスラムの子供だからこそ通れる数センチの隙間。
ルカは衣服が擦れる音すら立てず、液体のように滑らかにその隙間をすり抜け、闇の中へ侵入した。
内部には、鼻を突く安いエール酒と、何日も風呂に入っていない男たちの体臭が充満していた。
ランプの薄暗い灯りの下、二人の大柄な男が木箱をテーブル代わりにして酒を煽っている。
その背後、部屋の隅の暗がりに、猿ぐつわを噛まされ、手足を縛られた小さな少女が転がされていた。
恐怖で震え、声を殺して泣いている。
「おい、このガキ、本当に高く売れるんだろうな?」
「ああ。貴族サマの屋敷の『玩具』には、こういうしょんべん臭そうなのが好まれるんだよ」
下劣な笑い声が響く中、ルカは梁の上から音もなく床へと降り立った。
足の裏の感覚を極限まで研ぎ澄ませる。
床板の軋む場所を本能で避け、男たちがジョッキを打ち鳴らす音に自身の足音を完全に重ねて歩みを進める。
それは、力を持たない弱者がスラムで生き抜くために身につけた生存術だった。
少女の背後に辿り着く。
突然背後に現れたルカの姿に、少女が目を見開いて悲鳴を上げそうになる。
その瞬間、ルカは泥だらけの小さな手でそっと少女の口を塞ぎ、人差し指を自分の唇に当てて「シッ」と優しく微笑みかけた。
大丈夫だ、俺が助ける。
その瞳のメッセージが伝わったのか、少女は小さく頷いた。
ルカは隠し持っていたナイフで素早く縄を切る。
見張りの男が酒瓶に口をつけ、喉を鳴らして視界を上に向けたその一瞬の隙。
ルカは少女の手を引き、来た時と同じように音もなく、換気口の隙間へと滑り込んだ。
暴力も、派手な魔法も一切ない。
ただ圧倒的な「知識」と「地の利」、そして魔獣との完全な連携だけで、強者の隙を突いた完璧な救出劇。
見張りの男たちは、自分たちの「商品」が消えたことにすら気づいた様子もなく、馬鹿みたいに笑い続けていた。
「……ルカ!!」
倉庫から離れた路地裏で、息を切らして駆けつけたシルヴィアが、ルカと少女の姿を見つけてその場にへたり込んだ。
「お怪我はありませんか!? あなたが無茶をしたんじゃないかと……!」
「へへっ、約束通り『喧嘩』はしてないぜ? ただ、向こうがよそ見してる間に、忘れ物を拾ってきただけだ」
「全く、ルカったら……!」
涙目で抱きしめてくる冷徹なはずの監査官に、ルカは誇らしげに笑った。
特別報酬として渡されたいつもより少しだけ重たい銀貨の袋が、ズボンのポケットでチャリンと心地よい音を立てる。
「よし。今日の仕事は終わりだ! 帰りに温かいスープとパンをどっさり買って帰るぞ、バディ!」
——そして、時間は現在へと戻る。
ルカが買ってきた肉入りスープの匂いが立ち込める、薄暗い孤児院の夜。
「ほらザック、パンをスープに浸したまま喋らないの。こぼれるでしょ。みんな、明日は早いんだから食べたらすぐ寝なさいよ」
亜麻色の長い髪を後ろで一つに結び、優しげな垂れ目をした一番年長の18歳の少女マリアが、ボロボロの布巾でテーブルを拭きながら、まるで母親のような口調で世話を焼く。
「わかってるってマリア姉ちゃん! でもよ、いよいよ明日だぜ!」
短く刈り込んだ逆立てた赤毛と、日焼けした肌にそばかすが目立つ体格の良い16歳の少年ザックが、興奮を抑えきれないように拳を握りしめた。
「俺がテイマーになって、一発逆転してやる! 絶対にお前らを守れる力を手に入れてみせるからな!」
「……テイマーになれたら……俺、でかい工具運べる、力の強い魔獣がほしい……そしたらもっと、色んな機械いじれるから……」
前髪が長く伸びて目元を隠し、いつも煤で顔や指先を黒く汚している小柄な14歳の少年ニコが、拾ってきた壊れた歯車を磨きながらボソボソと呟く。
「ザック兄もニコ兄も、夢を見るのは自由ですがね。過去十年のギルドの統計上、スラム出身者が適性検査を通過する確率は、わずか1%未満ですよ」
理知的な焦茶色の瞳と、痩せぎすで神経質そうな顔立ちで年齢に似合わない口調をした8歳の少年マルコが、ヒビの入った丸眼鏡を中指で押し上げながら、やれやれと肩をすくめる。
「うっせえマルコ! 俺はその1%に入ってやるんだよ!」
ザックが怒鳴り、癖のある金糸の髪を二つ結びにした大きな瞳を持つ13歳の少女アニータがそれを微笑ましく見守り、まだ2人とも7歳と幼く、ほっぺたを赤くした丸顔の小さなティムとリリィが無邪気に笑い声を上げる。
その温かく、希望に満ちた光景を部屋の隅から見つめながら、ルカは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
特務官の仕事なんて、いつまで続くかわからない。
だからこそ、みんなが自分の力で生きていける「明日」を夢見ていることが、ルカにはたまらなく嬉しかった。
だが——スラムの空を覆う雲は、どこまでも黒く重い。
明日の朝、彼らが希望を胸に叩く『テイマーズギルド』の扉。
そこで待っているのは、努力や絆などという生ぬるい言葉では決して覆らない、魔法至上主義という絶対的な壁だ。
『才能なし(無能)』。
統計の1%という数字は、ただの確率ではない。
残りの99人の首を容赦なく切り落とす、社会の断頭台なのだ。
無邪気に笑う彼らの未来に、底なしの絶望がすぐそこまで迫っていることを、ルカはまだ知らない。
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