第44話 : 裏路地の特務助手
薄暗いスラムの孤児院に、温かいが安価な材料で作られた少しだけ肉も入ったスープの匂いが立ち込めていた。
「……すっげえよな、特務官って。ルカ兄ちゃん、また稼いできたんだろ?」
「ああ。今日はお腹いっぱい食えよ」
ルカが買ってきた硬いパンをスープに浸し、口いっぱいに頬張る小さな男の子たち。
そのうちの一人、少し年長の少年が、目をキラキラと輝かせてルカを見上げた。
「俺も、ルカ兄ちゃんみたいになりてえ。魔獣を連れて堂々と街を歩いて、スラムから悪い奴らを追い払うんだ」
「明日、テイマーになれたら……俺もいっぱい稼いで、みんなに美味いもん食わせてやるからな!」
無邪気な声に、ルカは「おう、期待してるぞ」
と優しく頭を撫でた。
みんなが幸せそうに笑い合う光景。
自分たちが腹いっぱい食って、温かい場所で眠る。
この当たり前ではない温かさを、絶対に守り抜く。
ルカは胸ポケットにしまってある分厚い羊皮紙の上から、ポンと布越しに胸を叩いた。
これが全ての始まりだった。
きっかけは、帝都から帰還した直後のことだ――。
上質な羊皮紙が、カサリと重厚な音を立てて木製のテーブルに置かれた。
ほんのりと漂うインクの匂いと、目の前に座るシルヴィアのシワ一つない国家監査局の制服。スラムの裏路地とは無縁の洗練された空気に、ルカはごくりと唾を飲み込んだ。
「ルカ。帝都への遠征、本当によくやってくれましたね。その功績を認めて、改めて貴方を雇いたいと思っています。これは『国家最高監査局 特務情報提供者 雇用契約書』です。字が読めない貴方のために、私が読み上げます。よく聞いて」
シルヴィアは氷のように冷徹な、国家エリートとしての表情を作り、一切の感情を交えずに流暢な言葉を紡ぎ出した。
「第一条。乙は甲に対し、指定管轄区の治安情報を報告する。第二条。乙は情報精度を担保するため、心身の健全性維持義務を負う。第三条。乙は危険行為及び物理的闘争を徹底して回避せねばならない。第四条。乙の身柄は甲の専属管轄下に置かれ、第三者による干渉を完全排除する。……第五条。甲は乙に対し、規定の報酬と必要経費を支給する」
「……おう」
ルカは小さく頷いた。
難解な用語の羅列だが、要するに「情報を集めてこい」という公的な契約なのだと理解した。
しかし、シルヴィアはそこで一度言葉を切り、コホンと小さく咳払いをした。
「……というのが、法的な正式条項の概要です。ここからは、実務に向けて簡単に伝えます」
「わかった」
「ええ。まず、第二条の『心身の健全性維持義務』ですが……こ、これはつまり、成長期における身体的発達を阻害しないために、一日三回、必ず栄養を摂取しなさいということです! これは国家からの厳命であり、経費は全額支給しますから、絶対に残さず食べること!」
「え?」
シルヴィアの早口なまくし立てに、ルカは目をパチクリとさせた。
「次に第三条の『物理的闘争の回避』! これは要するに、危険な喧嘩は絶対に禁止ということです! そして最も重要な第四条の『専属管轄』! もし貴族や悪い大人に無理やり危ないことをさせられそうになったら……そ、その時は、私が国家権力をもって事前の警告なく相手の全財産を凍結して叩き潰し、貴方を安全な施設に収容しますからね!」
「……えっと」
「最後に報酬と経費! 当然ですが、正当な報酬は銀貨で支払います! ですが、もらったお金を賭博や悪い薬に使ったりしては駄目ですよ! あと、出頭する時はできるだけ衣服の泥を払って……ごにょごにょ……」
勢いよく言い切った後、シルヴィアは少しだけ視線を逸らし、その白い耳の先をほんのりと赤く染めていた。
ルカは息を詰めた。
(……なんだよ、それ)
完璧な法律用語で塗り固められていたが、ルカには痛いほど理解できた。
要するに、「嘘をつくな、お小遣いをあげるから腹いっぱい食え、喧嘩はするな、何かあれば私が絶対に守る、無駄遣いはするな」。
ただそれだけの、ルカを甘やかして守るためだけの理屈だ。
自分の「ただの施しは受けない」というちっぽけな誇りを守るためだけに、この超エリートの監査官は、バレないように必死に取り繕いながら、こんな過保護で隙のない『言い訳』を作り上げたのだ。
胸の奥が熱くなり、鼻の奥がツンと痛む。
ルカは泣いてしまいそうになるのを必死に堪え、顔を上げてくしゃくしゃの満面の笑みを作った。
「分かった! 完璧に理解したぜ、シルヴィア……さん!」
「え、ええ。頼りにしていますよ。では、ここにサインを」
差し出されたのは、銀細工の施された美しい高級ペンだった。
ルカは手を伸ばし――ハッとして引っ込めた。硬く分厚いタコができ、泥の染み込んだ自分の手で、こんな綺麗なものを汚すわけにはいかない。
ましてや、自分の名前の書き方すら知らないのだ。
「……俺、字が書けねえんだ。でも、絶対に綺麗に書きたい。別の紙で練習させてくれないか?」
シルヴィアがハッとして静かに頷き、白紙の束を渡す。彼女がそっと手を取って文字の形を教え、ルカはペンを折らないように恐る恐る、汗をにじませながら線を引いた。何度も、何度も。
その泥にまみれた真剣な横顔を至近距離で見つめながら、シルヴィアの胸はひどく熱く締め付けられていた。
(この泥だらけの小さな手に、もっと広い世界を見せてあげたい。文字を、知識を、そして温かい居場所を――)
冷徹な監査官の胸の奥底で、今まで感じたことのない、ひどくお節介で温かい感情が静かに熱を帯びていく瞬間だった。
やがて、たどたどしくも力強い「ルカ」のサインが刻まれたその日、この羊皮紙は彼にとって命の次に大切な宝物となった。
契約締結からしばらく時間が経ち。
スラムの薄暗い裏路地には、じめじめとした苔の匂いが立ち込めていた。
「グルル……」
お気に入りの水玉レッグウォーマーをつけた相棒の魔道犬バディが鼻をヒクつかせ、低い唸り声を上げる。ルカが音もなく首元を撫ると、ピタリと声を潜めた。
ルカは契約書の「情報を集める」と「喧嘩はしない」を胸に刻み、特務助手としてスラムをパトロールしていた。
大人が入れない細い隙間を抜け、浮浪者や娼婦たちの些細な会話の欠片を拾い集める。
言葉を発さずとも、視線と耳の傾きだけでバディと連携する彼らの姿は、もはやスラムの「目と耳」そのものだった。
数日後。
ルカはギルドの裏口で、一生懸命にズボンやシャツの土汚れをパンパンと払い落としていた。シルヴィアとの約束を守るためだ。
「よく来てくれましたね、ルカ」
待っていたシルヴィアに、ルカは背筋をピンと伸ばして報告した。
「ああ。嘘偽りなく報告するぜ。……最近、スラムの貧民層のガキが、立て続けに行方不明になってるみたいだ」
ルカの真剣な瞳に、シルヴィアの表情がスッと冷徹な監査官のそれに切り替わる。
ただの噂ではない。
バディの鼻が捉えた、微かな泥と血の匂いがそれを証明していた。特務助手ルカの仕事が、深く暗い闇の事件へと繋がろうとしていた。
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