第43話 : 泥濘の勇者と、壊れた聖女
レオンとクロが人々の温かい笑顔に包まれていた頃。 かつて彼らを「無能」と見下し、雪山に捨てた特権階級の者たちは、息の詰まるような泥濘の底で喘いでいた。
グランバザールから少し距離の離れた『ミストの街』。
その裏路地にあるカビ臭い安宿の薄暗い一室で、かつての勇者アルベールは床をのたうち回っていた。
「ひっ、あ……ああっ! くるな、こっちへくるな!!」
手入れが行き届き、輝くようだった金髪は脂と泥で汚れ、落ち窪んだ目には濃い隈が張り付いている。
魔竜と化したアースドラゴンの絶対的な恐怖が脳裏にこびりつき、彼は重度のPTSDを発症していた。
些細な足音や風の音にすら怯え、虚空に向かって剣を振るう日々。
「俺は、勇者だぞ……! ひれ伏せ、従え!!」
アルベールは部屋の隅を這う薄汚いネズミに向かって、血走った目で指を突き出した。
彼にとって絶対的な自信の源であった『ドミネイト(支配)の魔法』。
その特権が、なぜかあの日から一切発動しなくなってしまったのだ。
指先からは何の魔力も生じず、ネズミは彼を一瞥もせずに壁の穴へと消えていく。
「おえぇぇぇっ……!!」 自らの無力さと、アイデンティティの完全な喪失。
その現実を受け入れられないアルベールは、胃液を吐き戻しながら冷たい床にうずくまり、幼児のようにガタガタと震え始めた。
その惨めな姿を、部屋の入り口から冷ややかに見下ろす女がいた。
宮廷魔術師、ルクレツィアだ。
(ああ……なんて惨めなの。これが、あの誇り高き勇者の姿?)
彼女は爪先をいじりながら、自嘲気味にため息をついた。
魔竜の件で絶対的な名声を失った彼らは、グランバザールから逃げるようにこの街へ隠遁してきた。
生活費も底をつき、アルベールの薬代すらままならないという現実に、ルクレツィアは直面していた。
(どうして私が、こんな貧乏安宿で……)
彼女は、狂ってしまったアルベールを見つめ、唇を噛みしめる。
気高く傲慢だった自分が、なぜこのような惨めな生活を送らねばならないのか。
日々の食費や薬代を稼ぐための過酷な労働に身を投じる未来を想像し、彼女は出口のない不安と怒りに全身を震わせていた。
この男を見捨てれば楽になれると分かっていても、どうしても見捨てられない――そんな自身の執着に、ルクレツィアは夜ごと激しい苦悩を募らせていた。
嘔吐物にまみれ、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして震えるアルベール。
かつて自分を見下していた強者が、今は自分がいなければ生きていけない赤子のように泣いている。
その事実に対し、ルクレツィアの胸の奥に「哀れみ」と混ざり合った、母性にも似た奇妙な感情がポトリと落ちた。
「……大丈夫よ、アルベール」
ルクレツィアはゆっくりと歩み寄り、汚れにまみれたアルベールの頭を胸に抱き寄せた。
「私がついてるわ。私が、なんとかするから……」
彼の震える頭を優しく撫でながら、ルクレツィアはただ「この惨めな男を放ってはおけない」という感情に突き動かされていた。
彼女の胸中には、明日をも知れぬ困窮への恐怖と、かつての栄光を捨てきれないプライド、そしてアルベールを守らなければならないという歪んだ母性のようなものが複雑に絡み合い、彼女自身を蝕んでいた。
* * *
一方、勇者パーティの回復役であった聖女エレノアは、魔竜騒動の混乱の中、騒ぎを聞きつけて駆けつけたグランバザール教会の者たちに発見され、ひっそりと保護されていた。
教国からは僻地とも言えるこの小さな教会の礼拝堂裏にある私室は、今、聖女の帰還による異様な熱気に包まれていた。
「おお、聖女様……! すべては御心のままに!」
シスターのクレアが、床に額を擦りつけるようにして祈りを捧げている。
その背後では、女騎士カレンと重騎士ボイドが、近づく者を一切許さない鉄壁の盾として鋭い視線を光らせていた。
彼らの崇拝の先にある、ベッドの上。
そこに横たわるエレノアの姿は、ひどく痛ましいものだった。
雪山で負った生々しい傷跡や、全身に広がる青白い痣がそのまま残っている。
だが、クレアたち身近な関係者は、その痛々しい姿を、
「人々の痛みを我が身に引き受ける、自己を捨てて神に近づかれた尊い御姿」
と勝手に解釈し、崇拝を深めていたのだ。
エレノアはベッドの上でピクリとも動かず、ただ虚空を見つめている。
彼女の心は、完全に壊れ果てていた。
勇者パーティが崩壊したあの日。
自身の過ちと無力さを悟った彼女は、プライドを捨ててレオンに擦り寄り、あまつさえ己の身体まで差し出そうとした。
しかし、レオンの側にいる「ただのメイドか何か」だと思っていたシルヴィアに無様に床へ突き飛ばされ、挙句の果てには衛兵に摘み出されそうになったのだ。
その極限の屈辱を味わった直後、魔竜の再来という圧倒的な恐怖が重なった。
その激しい負荷に耐えきれなくなった彼女の精神は、徹底的に教育されてきた「理想の聖女」という殻に完全に閉じこもり、感情の一切を遮断するロボットと化してしまったのである。
「……聖女様、今日の調子はいかがですか」
心配そうに覗き込むシスタークレアに、エレノアは瞬き一つせず、どこか遠くを見るような瞳で答える。
「……すべては御心の通りに」
「そんな……お身体、本当にお痛ましくて……」
クレアが涙ながらに手当てをしようと近づくと、エレノアは機械的な声で言葉を継ぐ。
「……迷える子羊よ。嘆くことはありません。主は貴方をご覧になっています」
「……あぁ、なんと慈悲深いお言葉……!」 クレアたちが感涙を流してひれ伏す。
誰も、過去の彼女の醜い行いを知らない。
誰も、彼女の心が粉々に砕け散っていることに気づかない。
勘違いから生まれた狂気的な信仰が、感情を失った空っぽの聖女を、ただひたすらに崇め祀り上げていく。
光を見出し、温かい絆と知識で未来を切り開こうとする者たち。
そして、偽りの強さを失い、底知れぬ泥濘と狂気の中で自我を失っていく特権階級の者たち。
決して交わることのない二つの対極の運命が、ここから静かに、しかし確実に回り始めていた。
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