第39話 : 愛と狂気の祭典(前編)〜給仕犬クロ、出陣〜
「……完璧です。気温、湿度、風向き。そして集まった衛兵の数。すべてが計画通りですわ」
「うむ。我が商会の総力を挙げたお菓子とジュースの品質も、最高傑作に仕上がっておる」
抜けるような青空の下、グランバザールに新設された『憩いの広場』
その片隅に立てられた運営用テントの陰で、国家最高監査局のエリート官僚シルヴィアと、中部物流を牛耳る大商人ガストンが、腕組みをしながら怪しく目を光らせていた。
彼らの視線の先には、広場の中央で子供たちに囲まれている一匹の黒い犬――かつてこの街に絶望をもたらした天災であり、今や二人の狂信的な愛を一身に受ける黒竜、クロの姿があった。
「すべては、クロちゃんのあの尊い笑顔を取り戻すために……!」
「ああ。衛兵どもの脳髄に、クロの可愛らしさを強制的に刻み込んでやるのだ」
二人の大人が権力と財力を私物化し、本気で企てた『無害可愛さアピール作戦』
それが今、盛大なオープニングセレモニーという大義名分の下で幕を開けた。
午前十時。広場に設置された木製のアスレチックからは、子供たちの甲高い歓声が響き渡っていた。
老衛兵のダンは、非番の私服姿でその喧騒から少し離れた場所に立ち、ハラハラとした視線をアスレチックへ向けていた。
「おい、こら……! そっちへ行っちゃダメだ!」
ダンの制止の声は、お祭りの賑わいにかき消される。彼の五歳の孫が、短い足でトテトテと走り寄り、あろうことか漆黒の魔獣――シアンブルーに大きな白い水玉模様のフード付きセーラーベストを着たクロの太い前脚に、無邪気に抱きついてしまったのだ。
ダンの心臓が跳ね上がった。魔竜戦のあの日、この黒い獣が放った、息も絶え絶えになるほどの絶対的な覇気を思い出す。
あの鋭い牙が、もし孫に向けられたら。
(終わった……!)
ダンが血の気を引かせて駆け出そうとした、その時。
クロはゆっくりと首を下ろし、己の脚にしがみつく小さな命を見つめた。
そして、怒るどころか「ハフッ」と柔らかい息を吐き、孫の頭をペロリと優しくひと舐めしたのだ。
「あはは! くすぐったいよぉ!」
キャッキャと笑う孫の姿に、ダンは思わず足を止めた。
クロは大きな体を器用に丸め、子供たちが背中に寄りかかっても、耳を引っ張られても、ただ穏やかに目を細めて尻尾を振っている。
そこにあるのは、恐怖の天災ではなく、間違いなく心優しき一匹の犬だった。
「……なんだ。あんなに、優しい顔をするんじゃないか」
強張っていたダンの肩から、フッと力が抜ける。
目尻の深い皺が、安堵と微かな温もりで緩んでいった。
午前十一時。
広場の中央に、澄んだ鐘の音が鳴り響いた。それを合図に、クロのお色直しが終わる。
「よし、完璧だ。苦しくないか、クロ?」
レオンが膝をつき、クロの首元を優しく撫でる。
クロが身につけているのは、ガストン商会の量産品である『マルチフィットサスペンションキャリア』を、レオンがクロの骨格に合わせてミリ単位で再調整した特注の給仕用ハーネスだった。
真っ赤なヌメ革の首輪に、シアンブルーの水玉模様のフード付きベストが、艶やかな漆黒の毛並みに驚くほど映えている。
荷台には、色とりどりのマカロンや焼き菓子、そして氷で冷やされた果実水が綺麗に並べられていた。
「クゥン!」
任せて! と言わんばかりに元気よく吠え、クロは「移動式給仕犬」として歩みを進めた。
可動域を一切邪魔しないレオンの完璧な仕立てにより、荷台のジュースは一滴もこぼれることなく、クロはトコトコと広場を練り歩く。
「わぁ、賢くて可愛いワンちゃんだ!」
「お菓子をもらっていいの? ありがとう!」
魔竜の覇気を知らない一般の市民や子供たちが、抵抗なくクロに群がり、笑顔でお菓子を受け取っていく。
クロも嬉しそうに鼻先をすり寄せ、時にはお座りをして見せて歓声を浴びている。
その平和で愛らしい光景を、広場の警備に駆り出されていた衛兵たちは、呆然と見つめていた。
「おい……あんなに普通に触れ合えるのかよ」
「俺たち、なんであんなに怯えてたんだ……?」
張り詰めていた彼らの毒気が、市民たちの笑顔の連鎖によって少しずつ抜けていく。
その空気に、真っ先に陥落した男がいた。
衛兵服のベルトがはち切れそうなほど太った、超食いしん坊の衛兵ゴードンだ。
彼の鼻腔を、ガストン商会が威信をかけて用意した極上のバターと砂糖の甘い匂いが容赦なく刺激する。
ゴードンはゴクリと生唾を飲み込み、震える足でクロの前に進み出た。
「お、俺も……ひとつ、もらっていいか?」
ゴードンが恐る恐る手を伸ばす。クロは小さく首を傾げると、どうぞ、と言うように荷台をゴードンの前に差し出した。
ゴードンがクッキーを手に取り、口に放り込む。サクッという軽快な音と共に、濃厚な甘味が口いっぱいに広がる。
「……うっま!! なんだこれ、最高じゃねえか!!」
恐怖など完全に忘れ去り、顔を綻ばせるゴードン。
そのあまりにも幸せそうな顔に、周囲の衛兵たちからドッと笑い声が上がった。
その笑い声に背中を押されるように、一人の若手衛兵が進み出た。
過去の青空市場の火災で、逃げ遅れたところをクロに救われたルイスだ。
彼は緊張に微かに唇を震わせながらも、クロの目の前でゆっくりと膝をついた。
クロが、黒曜石のような澄んだ瞳でルイスを見つめ返す。
「あの時は……助けてくれて、ありがとうな」
ルイスがそっと伸ばした手が、クロの頭に触れる。
温かく、柔らかな毛並み。トラウマの壁を越え、ルイスが優しく撫でると、クロは「ハフッ」と嬉しそうに目を細め、ルイスの頬をペロリと舐めた。
「ははっ……くすぐったいってば」
広場のあちこちで、衛兵たちの顔に確かな笑顔が咲き始めていた。
テントの陰からその光景をビジョンクォーツ(写真機)で激写し続けるシルヴィアと、満足げに頷くガストン。
給仕犬としての初仕事を完璧にこなし、人々の心を見事に溶かしたクロ。
和やかな空気に包まれた広場は、午後三時からのメインイベント『腕相撲大会』へ向けて、さらなる熱狂の渦へと突入していこうとしていた。
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