第2話:飢えた天災
勇者パーティの防魔テントを飛び出したレオンを待ち受けていたのは、肌を切り裂くような極寒の暴風と、視界を白一色に染め上げる猛吹雪だった。
勇者アルベールは「麓に辿り着く前に凍ったオブジェになるのがオチだ」と冷笑したが、レオンの足取りに迷いはない。
彼が纏う防寒外套は、前世の興味を抱いた対象を徹底的に探求してきた科学的知見と、職人としての技術の粋を集めて仕立てた最高傑作であり、この世界の過酷な自然環境をものともしない断熱性を誇っていたからだ。
ザク、ザク、と一定のテンポで雪を踏みしめ、レオンは淡々と山を下っていく。 道中、吹雪を避けるための即席の雪洞を掘り、効率的に体力を温存しながら、彼はただ孤独に歩みを進めた。
ほぼ魔力を持たぬ身ではあっても、自然の摂理をロジカルに理解していれば、この程度の雪山は決して下山不可能な障害ではない。
そうして下山を始めて三日が経過し、ようやく麓の宿場町ロドスの夜景が遥か遠くに見えてきた頃だった。
大断絶山脈の、いまだ険しい高度を保つ雪原において、レオンの五感が明確な異変を察知した。
周囲の風の音が、不自然に消える。 激しかった猛吹雪がピタリと止み、空間そのものが不気味に静まり返った。
それと同時に、超高密度な魔力の圧縮に伴う急激な気圧低下が、レオンの肉体を容赦なく襲った。
鼓膜が内側から引き裂かれそうな激痛が走り、周囲の酸素を一瞬にして奪われ、激しい目眩と呼吸困難に陥る。
常人であれば、何が起きたかも理解できずにショック死するレベルの危機。
しかし、レオンは驚くほど冷静だった。 突然動きの重くなった身体をなんとか動かし、腰に下げていたマウンテンブリーザーを起動する。
それは彼が高山地帯の過酷な環境調査から高山病対策として新たに自作して持参した、周囲の魔力をある程度遮断し、気圧と酸素濃度を一定に保つための携帯用魔道具だった。
カチリ、と起動音を立てた魔道具から周囲2m程の範囲に不可視の障壁が展開される。それにより気圧と酸素が瞬時に正常値へと近づき、レオンは肉体への致命的なダメージをロジカルに軽減した。
最低限の安全を確保したレオンが、静かに眼鏡の位置を直して頭上を仰ぐと、重苦しい雲が渦を巻いて割れていくのが見えた。
天の裂け目から、ゆっくりと「それ」は降臨した。
人類が歴史上、ただの一度もドミネイトできず、国家が『天災』として恐れ、ただ避け続ける事しかできなかった世界の特異点――黒竜。
小さな山がそのまま動いているかのような、圧倒的な質量を持つ漆黒の巨体。
それを覆う鱗の一枚一枚が、周囲の光をすべて吸い込みながら鈍く狂気的な光を放っている。
その巨大な双眸は、深紅の炎のように燃え上がっており。
周囲の空間そのものが、竜の発する熱と魔力によって陽炎のように歪み、あらゆる生物の生存を許さない絶対的な死の領域を形成していく。
黒竜は深く息を吸い込み、すべてを噛み砕く大顎を開いた。
世界を無に帰すほどの極大のブレスが、眼下に立つ矮小な人間、レオンに向けて放たれようとしていた。
だが、レオンは震える手で筆記用具と自作のバインダーに挟まったノートを取り出した。
どんな些細な変化も見逃さない研究者としての目で、黒竜の骨格や筋肉の動きを冷静に観察していた。
狂気的とも言える彼の研究者魂が、その瞳の奥でギラギラと輝いていた。
(喉頭の極端な跳ね上がり、胸腔の過膨張、威嚇の指向性……。
なるほど、前世の犬がよくやった『要求吠え』の拡大版ですか?強すぎるがゆえに誰にも理解されず、恐怖と暴力でしかコミュニケーションを取れない、哀れな迷子、といったところですね)
黒竜が、世界を焼き尽くす一撃を放とうとした、その刹那。 レオンには焦りも怯えもなかった。
右手のペンをしまい、代わりにポケットから取り出したクリッカーを、熟練された最低限の親指の動きだけで、静かに押し下げた。
――パチリ!
完全に凍りついた静寂の雪山に、澄んだ金属音が鋭く響き渡る。
「……!?」
黒竜の脳天を、未知の衝撃が貫いた。世界を滅ぼすはずだったブレスの駆動が、完全に停止する。
長きにわたる気の遠くなるような寿命の中で、この竜に向けられるのは常に恐怖か敵意、あるいはドミネイトによる気持ちの悪い魔力だけだった。
だが、今響いたとても小さく、しかし澄み切ったその音には、そのどちらも含まれていない。混じり気のない純粋な「肯定の合図」。
黒竜の巨大な双眸が、生まれて初めて戸惑いという感情で瞬きをした。
レオンは間髪入れず、大きいカバンから取り出した一切れの干し肉を、竜の目の前へと放り投げた。 前世の知識をフルに活用し、旨味成分であるグルタミン酸とイノシン酸を魔獣の味覚神経の限界値まで引き上げ、レオンが自作した『旨味を濃縮、熟成させた特製おやつ』である。
風に乗って漂った圧倒的に芳醇な香りが、黒竜の巨大な嗅覚受容体を強烈に刺激した。
竜の顎が、それを本能的に捉え、咀嚼する。
その瞬間、黒竜の脳内に、未だかつて経験したことのない大量のオキシトシンが爆発的に分泌された。
(美味い。何なのだこれは。私の存在全てが、この奇妙な音と、小さな肉塊ごときに、完璧に満たされたような――)
ドォン!!!
少しの間の後、凄まじい地鳴りと地響きを立てて、世界の災厄たる黒竜が、レオンの足元に腰を下ろした。
それだけではない。直後に周囲の雪を吹き飛ばすほどの勢いで尾を振り、その巨大な頭をレオンの足元にそっと寄せ、喉をゴロゴロと鳴らして完全に服従の体勢をとったのだ。




