第17話:監査官、天災に陥落する
2週目に入ると、シルヴィアの「監視」の様子は目に見えて変わっていった。
「ク、クロちゃん……。今日はお肉の専門店で、奮発してブランド魔獣の骨付きリブを買ってきたのだけど……食べてくれる?」
空が曇り暗い日の昼、宿舎の外のベンチで、シルヴィアが真っ赤な顔をして肉を差し出していた。
「ハフッ!?」
クロが目を輝かせ、短い尻尾をプロペラのように全力で振りながら近づいてくる。そして、シルヴィアの膝に頭を擦り付けた。
「ひゃうっ! 可愛い、可愛いわクロちゃん……っ!」
我を忘れてもふもふとスキンシップを楽しむシルヴィア。
しかしその直後、店の脇の路地裏から野良犬が小さく吠えた瞬間、クロが鋭い一瞥をそちらにくれた。
ズン、と空気が重くなるような、一瞬だけの『黒竜の片鱗』
「ひぃっ!?」
シルヴィアの背筋が凍る。やはり恐怖心が完全に消えるわけではない。
だが、その圧倒的な強さと、普段自分へと見せてくれる愛らしさのギャップが、彼女の心を完全に捉えて離さなくなっていた。
半ば脅しのように押しかけているのだが、24時間行動を共にする事によって、レオンを見る彼女の視線にも、別の熱が混ざり始めていた。
技術を語るときの真摯な横顔、魔獣の傷をいたわる優しい手つき、何よりクロへの深い愛情を見るたびに、彼女の胸が高鳴り、目を逸らす事が出来なくなる。
それが「恋心」であることに、生真面目な彼女自身は、まだ気がついていない。
10日目の朝、レオンが市場へ材料の買い出しに出かけると、通り沿いの建物の陰からルカがお気に入りのレッグウォーマーを身につけたバディを連れてひょっこりと姿を現した。
ルカは街の様々な情報をレオンに手渡すのが日課になりつつあった。
「おっさん、おはよ! 今日も街の有益な情報を持ってきてやったぜ! ギルドの裏の特級宿舎に、ガラルド帝都からすげえ偉そうな、真っ黒い上等な服を着たおっさんが到着した。大勢の厳つい魔術師たちを引き連れて、おっさんとクロのことを嗅ぎ回ってるみたいだ。多分、シルヴィア姉ちゃんの上司って奴だな。かなりヤバそうな空気だから、気をつけろよ!」
ルカが真剣な顔で教えを授けてくれる。
レオンは「ありがとう、ルカ。本当に助かるよ」と言って、カバンからバディ用の特製おやつと、ルカのために昨日買っておいた甘いパンを手渡した。
「へへ、ありがと! あ、それとね、こんな話もあるぜ!昨日、西の方に住んでる農家のババアが、飼ってる魔獣に脱走されて街中を大騒ぎで追いかけ回してたぜ。結局、裏庭のキャベツを美味そうに食ってるところを捕まったんだってさ、間抜けだよな!」
ルカは無邪気に笑いながら、有益、無益に関わらず、耳にした街の話をレオンに楽しそうに聞かせていく。
そして雑談がひと段落すると、ルカは目を爛々と輝かせ、レオンの衣服の裾をぐいぐいと引っ張った。
「でおっさん! 情報料の代わりに、今日もあの『ペットトレーニング』ってやつ、教えてくれよ! 俺が真似して『ステイ』って言っても、バディは嬉しくなっちゃって、俺の体に飛びついてばっかりで全然座ってくんねえんだ!」
レオンは優しく微笑み、ルカの目線に合わせてその場にしゃがみ込んだ。
「トレーニングで一番大切なのは、力で従わせることではなく、お互いの信頼とタイミングだよ。バディがお尻を地面につけた『その瞬間』に、すかさず褒めて、おやつをあげるんだ。座る前に声を張り上げたり、無理やり体を押し付けたりしちゃダメだよ。自発的にその形を取るのを待つんだ」
レオンはバディの前にしゃがみ、おやつの位置でバイオメカニクス的に誘導し、バディがスッとお尻を落とした瞬間に優しく声をかけておやつを与えた。
完璧な正の強化の実演。
「なるほど……タイミングか! よし、バディ、やってみようぜ!」
ルカは真剣な表情でレオンの教えを咀嚼し、何度も何度も、バディと楽しそうにトレーニングを繰り返した。
バディもルカの熱意に応えるように、少しずつ「ステイ」の姿勢を自発的に取れるようになっていく。
それを見たルカは「できた! おっさん、見てみろよ! バディができたぞ!」と大喜びし、バディの首を強く抱きしめて笑うのだった。
その頃、ガストン商会のステーブルでは、また別の深刻な問題が持ち上がろうとしていた。」
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