第11話:前世で鍛えたプレゼン能力
アイアンボアの巨体が、嘘のように静まり返っていた。
大通りを埋め尽くしていた怒号と悲鳴は消え去り、代わりに奇妙なほどの静寂がギルド前の大通りを支配している。
肥満体の商人、ガストン商会長は、自身の愛獣が今までにないほど穏やかな目で地味な青年――レオンに頭を垂れている光景を、ただ口を開けて見つめることしかできなかった。
「ふぅ……。よし、いい子ですね。少し痛むでしょうが、楽にしてあげますからね」
レオンはすぐさまカバンから痛み止めの軟膏を取り出すと、アイアンボアの腫れ上がった股関節に丁寧に塗り込んだ。
ひんやりとした薬効に、アイアンボアが安堵の鼻息を漏らす。間髪入れず、レオンは作業台の魔道具『パッとスタンド』の上で、愛用のミシン『ウルフマークⅠ』の針を動かした。カタカタと短い駆動音を響かせ、エイデンス村で譲り受けた良質な植物布とアイアンボアが破壊した荷台の天井に使われていた伸縮魔繊維を剥がして組み合わせ、ボアの太い脚のラインに完璧に沿う、患部を固定しつつ可動を妨げない専用の股関節サポーターを瞬く間に縫い上げていく。
「じっとしていて下さいね」
レオンが仕立て上がったサポーターをボアの負傷した脚へ素早く装着し、ベルトを最適な圧で締め付けると、アイアンボアは劇的に痛みが引いたことに驚いたように耳を震わせ、レオンの手にそっと鼻先を寄せた。
レオンはミシンとパッとスタンドを大きなカバンへと戻した。彼は少しずれた眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げながら、ゆっくりとガストンへと向き直った。
「ガストン商会長」
ガストンは、自身の愛獣が今までにないほど穏やかになっている姿、そしてそれを成し遂げた青年の手際に、ただただ圧倒されていた。
街の物流を牛耳る大商人として数多の修羅場をくぐり抜けてきた彼だったが、目の前の若者が放つ異様なまでの存在感に、思わず喉を鳴らし、背筋を正さざるを得なかった。
「……お主、一体何者だ。このアイアンボアを、ドミネイトも使わずにこれほど大人しくさせるとは……」
「ドミネイトは、痛みを麻痺させているだけに過ぎませんから。この子の股関節はひどい炎症を起こしていました。それを抑えるための専用サポーターを今、急ぎで仕立てて装着しました。それから、木製のサドル。
あれは魔獣の骨格を無視した拷問器具も同然です」
ガストンは、自分の強欲が招いた損失の大きさと、目の前の地味な男がもたらした驚愕の事実を噛み締めるように、深く、長く息を吐き出した。
「……わしの負け、いや、わしの完全な見当違いだ。お主の見立てた通りだ、レオン殿。『亡霊の急斜面』を急がせるために、負荷をかけ続けておった。だが……信じられん。あの気性の荒いアイアンボアが、これほど静かになるなど、高位の支配魔術でも有り得んことだぞ……」
そこへ事態を収集させたいギルド職員が、場所を冒険者ギルドの応接室へと移すことを提案した。
そこには、いまだに事態の衝撃から回復しきれず、借りてきた猫のようにソファーの端に縮こまっている国家監査官、シルヴィアの姿があった。
「ガストン商会長。今回の騒動鎮静の報酬ですが、金銭でいただく気はありません」
レオンが切り出した言葉に、ガストンは目を丸くした。
「金はいらん、だと? では、何を望むと言うのだ」
「その代わりに、私の構想した魔獣用の荷台接続具の生産と普及に、ガストン商会の力を貸していただきたいのです」
言うと同時に、レオンは応接室のテーブルに自身の描いた図面を広げた。
ガストンが身を乗り出し、シルヴィアもまた、青い顔のままそっと覗き込んでくる。
「これが……魔獣用の装着具、ですか?」
シルヴィアが小さく声を漏らした。レオンは頷く。
「その通りです。私が設計した装着具で名前は『マルチフィットサスペンションキャリア』。
首、胸、胴の3箇所に、伸縮性に優れた魔繊維の帯――『スライドアジャスター』を配しています。そして、この部分、サイドにある紐を引くだけで、個体に合わせて締結圧を適切に調整できる『調整式編み上げ構造』を搭載しました。それによって、魔獣にかかる荷重が分散するので積載量のアップとストレスを軽減。結果として暴走事故も減らす事が出来ます」
「……ほう?これは」
ガストンの目が、商売人としての鋭さを次第に取り戻していく。
「これがあれば、荷台を安全かつ強固に接続できます。汎用性が高く、いくつかのサイズを作ることによって個体を選ばず使用できます。この全く新しい装着具の卸先を、ガストン商会で独占する権利を差し上げます。その代わりに、生産を担う優秀な革職人や仕立て職人の斡旋、そして市場への普及のサポートをお願いしたいのです」
ガストンの目が、図面を見つめたままでギラリと輝いた。頭の中で、中部の物流ルートがこの装着具によって塗り替えられていくシナリオが明確に浮かんでいく。
(これは……売れるどころではない! 中部の物流の覇権を、我がガストン商会が完全に握れる程に、もしかすればもっと凄まじい事になる。大発明だ……!)
「……いいだろう! いや、ぜひ頼む! 職人の手配から流通経路の確保まで、わしの商会の総力を挙げて、この『マルチフィットサスペンションキャリア』販売のバックアップをやらせてくれ!」
ガストンはテーブルを叩かんばかりの勢いで快諾した。
レオンは静かに微笑み、次に視線をようやく少し落ち着いてきたシルヴィアへと向けた。
シルヴィアは今、レオンの側で完全に「ただの大きな愛くるしい犬」と化しているクロを見つめていた。
クロはレオンの膝に大きな顎を乗せ、少し退屈しているのか太い尻尾をフローリングにパタパタと打ち付けている。
「シルヴィア監査官」
「は、はひっ! 何でしょうか!?」
クロの観察に夢中になっていたせいか、声が裏返ってしまい、シルヴィアは恥ずかしくなって顔を赤らめてしまう。
「クロのこの姿を見ての通り、私はこの子を心から愛しています。大切な家族です。どうか、この子が街で安心して暮らせるよう、国家監査局の権限をもって、大型魔導犬としての『従魔登録証』の発行に尽力していただけないでしょうか」
シルヴィアは、クロのつぶらな瞳(中身は天災級の黒竜だが)に見つめられ、胸の奥がキュンと鳴るのを感じていた。
「あ、頭のツノも……その、よく見ると凄くチャームポイントというか……可愛い、ですね……。はい! このシルヴィア、監査官の誇りにかけて、レオンさんとクロちゃんの絆を証明してみせます!」
こうして、一つの契約と、一つの約束が交わされた。
しかし、国家の壁は、個人の感情だけで超えられるほど薄くはなかった。
翌日、事態はすぐに暗転した。
ドミネイトの術式を一切使わず、天災級の魔力を持つ黒竜が市街地に滞在している。
この前代未聞の報告は、シルヴィアがガラルド帝都へ送った定時連絡を通じて、国家監査局の中枢へと瞬く間に伝わってしまったのだ。
「レオンさん、申し訳ありません……」
翌日の朝、宿舎の前に現れたシルヴィアは、ひどく沈んだ顔で書類を差し出してきた。
「ガラルド帝都から、私の直属の上官である国家最高監査局次長が、多数の精鋭魔術師を引き連れてこちらに向かうと連絡がありました。到着し、正式な査察が完了するまで……おそらくは最低でも『三週間』、この街に留まり、厳重な臨検を受けるように、と」
「三週間、ですか」
レオンは表情を変えずに頷いた。「分かりました。国家の手続きなら従いましょう」
その日から、シルヴィアによる『24時間密着監視』という名の建前を掲げた、ストーカーに近い同居生活が始まった。
朝のお散歩から、ガストン商会との打ち合わせ、果てはレオンが工房で作業をする背中まで、シルヴィアは一歩引いた場所から、鋭い――というよりは、どこか強張った、熱のある視線を送り続けた。
手帳を片手に、カリカリとペンを走らせるシルヴィアの脳内は、日に日に大きくなっていく疑念と私的な雑念で渦巻いていた。
(まだ信じられない……。本当にドミネイトを使っていないなんて。何か、私が知らない古代の精神支配魔法か、あるいは巧妙な呪詛でも使っているのでは……あぁ、クロちゃん。レオンさんにピッタリとくっついて、尊い……推せる……。)
彼女の目の前で繰り広げられるのは、あまりにも「普通」の、他愛のない一人と一匹の日々だった。
「クロ、お散歩の途中で離れちゃダメだよ」
「ハフ?」
3日目の朝、クロが道端で見つけた、妙にねじくれた木切れを誇らしげに咥えて走り寄ってきた。
レオンの前にドサリと置くと、前足で地面をトントンと叩く。
「よしよし、いいものを見つけたね。でも、街の中では走ると周りの人がびっくりしちゃうからね?」
レオンが優しく微笑み、優しい手櫛でクロの背中を梳いてやる。それだけで、クロは目を細めて気持ち良さそうに喉を鳴らすのだ。
(……魔法の気配が、本当に一切しない。ただの、飼い主と犬のやり取りにしか見えないわ……)
シルヴィアのメモを取る手が、少しずつ緩んでいく。
しかし、その穏やかな日々の裏で、レオンが長年酷使してきたある「相棒」が、静かに限界を迎えようとしていた。
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