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潮待ちのレール ― 潮鳴りの門 ―  作者: たむ


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第六章 振り返る場所

 人が門を出たあとで一度だけ振り返るのは、名残のためだけではないのかもしれない。


 もちろん、別れの気持ちはあるだろう。

 宿の灯り。

 庭の遅さ。

 火のぬくもり。

 そうしたものを背中に残したまま外へ出るのだから、ふともう一度内側を見たくなることはある。

 けれど春口の門で起こる振り返りには、もう少し別の質もある気がする。

 人は、振り返ることで宿へ戻るのではない。

 むしろ、自分がもう町の足へ変わりつつあることを確かめるために、一度だけ振り返るのではないだろうか。

 庭の遅さを背中に感じたまま、門の外の音を受け、坂へ一歩出る。

 そのあとで、内側がちゃんと後ろへ置かれていることを確かめるように、振り返る。

 第十三作のここまで来て、湊はそんなふうに思い始めていた。


 翌朝、春口は薄曇りだった。

 風は弱く、潮の音もやわらかい。

 こういう日は、人の足音や衣擦れのほうが門でよく聞こえる。

 潮鳴りの門といっても、いつも潮のほうが前へ出るわけではない。

 外の音は日ごとに変わり、門はその都度違う濃さで人を町へ返していく。

 その変わり方もまた、この巻の一部なのだろう。


 朝のうちに、泊まり客の夫婦が出ていった。

 昨日までより荷物は少し整い、顔つきも旅の人というより“次の場所へ向かう人”のものに近くなっている。

 会計を済ませ、玄関を出て、門のところで一拍。

 そのあと二人は坂へ向かった。

 そして三歩ほど行ってから、女のほうだけが一度振り返った。

 大きな動作ではない。

 それでも確かに、門と庭をもう一度視界へ入れてから、また前へ向き直る。

 その短い振り返りが、妙に心に残った。


「いまのですね」

 湊が言う。

「ええ」

 汐里も頷く。

「振り返りましたね」

「どう見えましたか」

 彼女は少し考えてから答えた。

「戻りたい感じではなかったです」

「そうですね」

「むしろ」

「むしろ?」

「ちゃんと出たことを確かめてる感じ」

「……」

「宿の時間を置いていくための振り返り」

「かなり」

 湊は静かに言った。

「その通りかもしれません」

 その言葉で、振り返る意味が少し変わった。

 未練ではない。

 確認。

 門の内側にあるものを、ちゃんと後ろに持てたかどうか。

 それを確かめる一拍としての振り返り。

 春口の門らしい、やわらかな別れ方だと思えた。


 昼前、篠原が持ってきたのは、昔の女中が書いたらしい短い覚え書きだった。

 そこには、見送りの細かな記述というより、門を出たあとの人の後ろ姿がいくつか残されている。

 その中に、こんな一文があった。


 ――振り返る人は、戻りたい人ばかりではない。

 ――門と庭が後ろにあることを見て、ようやく外へ足が落ち着く人もいる。

 ――おかみさんは、その振り返りを止めないように、門の内側に半歩だけ立つ。


「止めないように」

 汐里が読む。

「ええ」

 湊も目を細める。

「それが大きいですね」

「どういう意味で」

「見送りって、ともすると」

「はい」

「“そのまま行ってください”って押してしまいがちです」

「……」

「でもお母さんは、振り返ることも含めてその人の外へ出る順番だと分かっていた」

「そうですね」

 篠原が頷いた。

「だから近すぎず、遠すぎず、半歩だけ内側にいたんでしょう」

「振り返っても、相手が困らない位置」

「ええ」

 その説明で、澄江の立ち位置がさらに深く意味を持ち始めた。

 門の内側に半歩。

 それは見送りのためだけではない。

 相手が振り返る余白を残すためでもあるのだろう。

 振り返るか、振り返らないか。

 それを相手に返したまま待てる位置。

 それが澄江の門の場所だったのかもしれない。


「母」

 汐里が低く言った。

「ええ」

「ここでもやっぱり」

「はい」

「“その人の順番”を壊さない人だったんですね」

「かなり」

 湊は答えた。

「待合でも、土間でも、庭でも」

「門でも」

「そうですね」

「それって」

 彼女は少しだけ笑った。

「一貫してますね」

「ほんとうに」

 澄江はいつも、相手が自分の順番で動ける余白を残す人だった。

 待つこと。

 受けること。

 返すこと。

 その全部に共通しているのは、先回りして結論を押しつけない態度なのだろう。

 第十三作で門を見ていると、その姿勢がもっともよく分かる気がした。


 午後、野島が来て、振り返る人のことを少し話してくれた。

 門柱に手を置きながら、坂の先を見るともなく見る。


「振り返る人ってね」

「ええ」

「やっぱりいるんですよ」

「多いんですか」

「多い少ないやない」

 野島は首を振る。

「振り返り方が違う」

「どう違うんですか」

「未練で振り返る人もいるし」

「はい」

「場所を確かめるように振り返る人もいる」

「……」

「前へ行くために、一回だけ後ろの位置を見直す人もいる」

 その三つ目の言い方に、湊は強く頷きたくなった。

 前へ行くために、一回だけ後ろの位置を見直す。

 それはまさに、第十三作の振り返りの意味に思えた。

 振り返ることは、必ずしも戻ることではない。

 後ろが後ろにあると確かめることで、ようやく前へ歩けることもあるのだろう。


「お父さんも」

 汐里が言う。

「ええ」

「そういう振り返りをしたことがあるかもしれませんね」

「あるでしょう」

 野島は穏やかに言った。

「遅れる人ほど、後ろの位置をちゃんと見てから歩くこともある」

「……」

「それは悪いことやないですよ」

「そうですね」

 湊は静かに答えた。

 遅れた人。

 待ちが長くなる人。

 でも、門を出たあとで一度だけ振り返り、後ろの位置を確かめてから町へ戻る人。

 父の像は、ここへ来てまた少し静かに、そして生活の中の人として整っていく。

 人は失敗の場面だけではできていない。

 そのあとどう振り返り、どう歩いたかまで含めて、一人の時間なのだろう。


 夕方、近所へ戻る老婦が門を出たあと、二歩だけ進んでから振り返った。

 汐里は例の半歩内側の位置にいる。

 何も言わない。

 老婦は門のひらき具合と庭を一度見て、それから「じゃあまた」とだけ言って坂へ下りていった。

 そのやり取りは、あまりにも自然だった。

 けれどその自然さこそ、宿が門の時間をちゃんと持っている証なのだろう。


「いまの」

 湊が言う。

「ええ」

 汐里も頷く。

「よかったですね」

「はい」

「振り返りやすかった」

「そうですね」

「近すぎなかったからだと思います」

「母も、そうやってたんでしょうね」

「かなり」

 湊が答えると、汐里は少しだけ門の柱に手を置いた。

 その仕草にも、もう門の人らしさがあった。

 橋の人、坂の人、待合の人、庭の人。

 そこにさらに、門の人が重なっていくのだろう。


 その夜、湊は一人で門のところへ出た。

 暗く、潮の音だけが薄く聞こえる。

 昼とは違い、門の向こうはほとんど見えない。

 それでも、ここに立つと、自分が外へ出ていく一歩目と、振り返る一拍の両方を持てる気がする。

 門とは、そういう場なのだろう。

 出るためだけでなく、後ろを後ろに置くための一拍も持てる場所。

 だから人は、ここでようやく町へ戻っていけるのかもしれなかった。


 ノートには、その夜こう書いた。


 ――門を出たあとの振り返りは、未練だけではなく、後ろを後ろに置くための確認でもあるのかもしれない。

 ――人は一度だけ振り返ることで、ようやく前へ進めることがある。

 ――澄江は、その振り返りを止めないために半歩だけ内側に立っていたのだろう。

 ――父もまた、門を出たあとでそうした一拍を持った人だったのかもしれない。

 ――第十三作の門は、人を返すだけでなく、振り返りも含めて町へ戻す場所なのだ。

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