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潮待ちのレール ― 潮鳴りの門 ―  作者: たむ


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第七章 門をひらく娘

 門をひらくというのは、戸を動かすことだけではないのだろう。


 木の重みを押し、蝶番の音を受け、朝の風を内へ通す。

 それはもちろん門をひらくことだ。

 けれど春口の宿でここまで見えてきた門の時間は、もっと別のところにある。

 人が出ていく一歩目のために、どれだけ外の音を通すか。

 どこまで内の遅さを残すか。

 振り返りやすい距離をどう保つか。

 見送る言葉をいつ置くか。

 そうした細かな加減のすべてを含めて、門は“ひらかれる”のだろう。

 第十三作の終盤に来て、汐里はようやくその意味を、自分の手と足と声で覚え始めているように見えた。


 翌朝、空は高く晴れていた。

 風はあるが強すぎない。

 潮の音も、今日は門のところでちょうどよく薄い。

 こういう朝は、人を押し出しもしないし、引き留めもしない。

 門の時間を見るには、かえってよい日なのかもしれなかった。


 汐里は朝の掃き清めを終えると、門をいつもより少しだけ広く開けた。

 全開ではない。

 だが半分よりは広い。

 その幅を見て、湊はすぐに気づいた。

 今日は人を“返す”ことのほうが前に出ている門なのだろう。

 庭の遅さは残しつつ、町の気配もいつもより多めに通す。

 そういうひらき方に見えた。


「今日は」

 湊が言う。

「ええ」

「少し広いですね」

「はい」

 汐里は門柱に手を置いたまま答えた。

「どうしてですか」

「風の入り方もあるんですけど」

「ええ」

「今日は、外へ戻るほうを少し前にしたい気がして」

「……」

「宿の遅さを残す日と」

「町の気配をよく通す日がある」

「そういう感じです」

「かなり」

 湊は静かに頷いた。

「門の人ですね」

 汐里は少し照れたように笑った。

 けれど、その笑いにはもう迷いばかりはなかった。

 橋を渡る人、坂を上る人、庭をあずかる人。

 そこへ今、門をひらく人が重なってきているのだろう。


 午前のうちに、宿へ昼食だけに立ち寄る客が二人あった。

 一人は港へ向かう途中の男。

 もう一人は町内の用事で上がってきた婦人。

 泊まりではないため、出入りの時間は短い。

 だが短いからこそ、門の一拍がはっきり見えることもある。


 男は食事を済ませ、帳場で会計をし、軽く会釈をして門へ向かった。

 汐里は半歩内側の位置に立つ。

 男は門柱のところでわずかに足を整え、外の坂へ目をやった。

 潮の音というほどではないが、外の広がりを一瞬だけ受ける。

 そのあと、自分の足で一歩出る。

 そこで汐里は「いってらっしゃいませ」とも「お気をつけて」とも少し違う、ごく静かな声で「どうぞ」とだけ言った。


 その言い方に、湊ははっとした。

 どうぞ。

 送り出すでも、励ますでもない。

 相手の一歩目をそのままひらくような言葉だったからだ。


 男が坂を下りていったあと、湊はすぐに言った。


「今の言い方、よかったですね」

「そうですか」

 汐里が少し驚いたように振り返る。

「ええ。“どうぞ”って」

「自分でも」

「はい」

「言ってから、母っぽいなと思いました」

「どうして」

「“行ってらっしゃい”だと、少し宿の側の言葉が強い気がして」

「……」

「でも“どうぞ”だと」

「その人の足に渡せる」

「そうなんです」

 その感覚は、とても第十三作らしかった。

 見送りの言葉は、感情の表明だけではない。

 相手が町へ戻る一歩目のための、最小限のひらきでもあるのだろう。

 汐里はそれを、いま自分の声で掴み始めている。


 昼前に出ていった婦人のときには、また少し違った。

 婦人は門のところで一度だけ振り返り、庭を見た。

 汐里は黙って半歩内側に立ち、その振り返りを壊さない。

 婦人が自分で「また寄ります」と言ってから、初めて「お待ちしています」と返す。

 相手が振り返る人なら、それに合う言葉の遅さが要る。

 見送りは一つではない。

 その人ごとの戻り方に合わせて、門の時間を変えていく必要があるのだろう。


「お母さんも」

 汐里がそのあとで言う。

「ええ」

「毎回同じ見送り方じゃなかったんでしょうね」

「そうでしょうね」

 湊が答える。

「橋や坂や庭がいつも同じじゃないのと同じで」

「はい」

「門も、その人ごと、その日ごとに違った」

「そうですね」

「それを覚えるのって」

 彼女は少し考えてから続けた。

「難しいですけど、少し楽しい感じもします」

「どうして」

「宿を守るって、同じことを繰り返すだけじゃないんだなって分かるから」

「……」

「母が残したものを、毎日そのままなぞるんじゃなくて」

「その日の人に合わせてひらき直す」

「はい」

「かなり大事なことですね」

 湊ははっきり言った。


 午後、篠原が野島と入れ違いにやって来て、門の開き具合を見てすぐ「今日は外が少し多いですね」と言った。

 汐里は笑って頷く。

 もう自分の加減として説明できるところまで来ているのだろう。


「第十二作で」

 篠原が言う。

「ええ」

「庭の遅さをあずかる人になり始めた」

「はい」

「第十三作では」

「……」

「その遅さをどこまで門のところで残し、どこから町へ返すかを、自分で扱い始めている」

「そうですね」

 湊が答えると、篠原は静かに微笑んだ。

「かなり大きな変化です」


 その言葉どおりなのだろう。

 庭を知ることは、内側を知ること。

 門を扱うことは、内側と外側の両方を同時に知ること。

 汐里は、もうそこへ足を入れている。

 それは宿の主として、大きな一歩なのかもしれなかった。


 夕方、宿へ戻ってきた近所の男が門のところで少し立ち止まった。

 今日は出ていくのではなく、入ってくる側だ。

 それでも門の時間はある。

 汐里はすぐ「お帰りなさい」とは言わず、まず男が門をくぐって庭の遅さを一瞬受けるのを待った。

 それから、小さく「どうぞ」と声をかける。

 出る人にも、戻る人にも、“どうぞ”がある。

 その発見に、湊はまた少し驚いた。

 門をひらく人とは、行き先の違いにかかわらず、その人が次の場所へ移る一拍を渡せる人なのかもしれなかった。


「今のも」

 湊が言う。

「ええ」

 汐里も気づいていたように頷く。

「戻る人にも、同じ言葉でしたね」

「はい」

「でも意味は少し違う」

「そうですね」

「出る人には、外へ」

「戻る人には、内へ」

「……」

「どちらにしても、その人の一歩目をひらく」

「かなり、門ですね」

 湊が言うと、汐里は少しだけ笑った。

「本当に」


 その夜、門はやや狭く閉じられた。

 昼間より、内側を多く残すひらき方。

 だが完全には閉めない。

 潮の音がまだ少し入る幅。

 それを見ていると、門もまた一日の中で呼吸しているように思えた。

 朝は町へ返し、昼は行き来を通し、夜は内側を濃くしながらも外を切りすぎない。

 門をひらくとは、その呼吸を知ることでもあるのだろう。


 ノートには、その夜こう書かれた。


 ――門をひらくとは、戸を動かすことだけではなく、その日の人や風に合わせて、どれだけ外を通し、どれだけ内を残すかを決めることなのだろう。

 ――汐里は見送りの言葉や沈黙の置き方、門の開き具合によって、その人の一歩目をひらき始めている。

 ――“どうぞ”という小さな言葉は、返す門にも、迎える門にも使える。

 ――第十三作で、汐里は“宿をひらく人”から“門の時間を渡せる人”へさらに進んでいる。

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