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潮待ちのレール ― 潮鳴りの門 ―  作者: たむ


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第四章 父の背中

 父の背中を、湊はこれまで正面からは見てこなかったのかもしれない。


 霧のホームに立つ父。

 港の灯りの前で遅れる父。

 待合で順番を待つ父。

 庭の火のぬくもりの前で、まだ急がなくてよくなった父。

 そのどれも、父の時間を近くした。

 けれどそれらは多くの場合、立ち止まっている父、留まっている父、見届けきれずにいる父として現れてきた。

 第十三作で門へ来て初めて、湊は“出ていく父”の背中を考え始めていた。

 宿を出る。

 門をくぐる。

 潮の音を一度だけ受ける。

 そして町へ戻っていく。

 遅れた人であっても、いつかはどこかでまた歩き出したはずなのだ。

 その背中を思い描けるかどうかが、第十三作の大きな問いのように感じられていた。


 翌朝、空は薄く曇っていたが、風はなかった。

 門は朝のひらきのまま、静かに半分だけ開いている。

 木が鳴るほどではない。

 こういう日は、音より足のほうがよく見えるのかもしれなかった。

 野島の言葉を思い出しながら、湊は門の内側に立って外を見た。

 潮の音は遠く、町の声のほうが近い。

 それでも門のところでは、やはり外へ戻る順番が少しだけ生まれる。

 父にも、そういう静かな朝があったのだろうかと思う。


 朝食のあと、篠原が持ってきたのは、古い宿帳の余白に書かれたと見られる、誰とも知れない簡単な覚え書きだった。

 字は乱れているが、ところどころに妙な具体がある。

 それがかえって本物らしく感じられた。


 ――朝、例の男、門のところで一度だけ外を見てから出る。

 ――急いでいるようで、急いでいない背中。

 ――坂へ出るころにはもう宿の人ではない。

 ――だが、すぐ町の人にもなりきらない。


「急いでいるようで、急いでいない背中」

 湊が低く読む。

「すごいですね」

 汐里が言った。

「どういう背中なんでしょう」

「たぶん」

 篠原が答える。

「足は前へ出ている」

「ええ」

「でも、気持ちの全部がもう外へ行き切っているわけではない」

「……」

「門の巻らしい言い方です」

「そうですね」

 湊も頷いた。


 急いでいるようで、急いでいない背中。

 その表現は、父にとても近い気がした。

 父は、ずっと動けない人だったわけではない。

 坂も上った。

 待合から立ちもした。

 庭の火の前からも、やがて部屋へ入ったり門へ出たりしたはずだ。

 だが、その一歩がいつもどこか半拍だけ遅い。

 門のところで見える背中とは、たぶんそういう“まだ外へ行き切っていない一歩目”の背中なのだろう。


「相沢さん」

 汐里が言う。

「はい」

「父親って、前よりもっと」

「ええ」

「“出ていく人”に見えてきますね」

「そうですね」

「ホームで取り残された人、だけじゃなくて」

「門を出る人」

「はい」

「それって」

 彼女は少し考えるように言葉を置いた。

「かなり大事です」

「どうして」

「母にとっても、宿にとっても」

「ええ」

「“ただ留まり続けた人”ではなくなるから」

「……」

「ちゃんと戻っていった時間がある」

「そうですね」

 湊は静かに答えた。


 その理解は、父を美化するものではない。

 遅れたことは消えない。

 見送れなかった朝も消えない。

 だが、それでも父には門を出ていった朝や夜があった。

 宿のぬくもりを少し背中に残し、潮の音を一度だけ受けて、町のほうへ歩いた。

 その時間が見えてくるだけで、父は“失敗の瞬間の人”ではなく、“そのあとも生きて歩いた人”として近づいてくるのだろう。


 昼前、野島がまた立ち寄った。

 今日は門柱の脇に立ち、昔の背中のことを少し話してくれた。


「人の背中ってね」

 野島が言う。

「ええ」

「門の前ではよう分かる」

「どういうふうに」

「中へ戻る背中か」

「はい」

「外へ戻る背中か」

「……」

「でもそのあいだの背中もある」

「どんな」

「まだ半分、宿のぬくもりを背負ってる背中」

「それが」

 湊が言う。

「“急いでいるようで、急いでいない背中”」

「そういうことです」

 野島は頷いた。

「門を出てすぐの人は、だいたいそうですよ」

「すぐ町の人にはならない」

「ならないね」

「どうしてでしょう」

 汐里が訊く。

「宿の中の時間が、まだ背中に残っとるからでしょう」

「……」

「庭や、火や、声の置き方や」

「はい」

「それを少し背負ったまま坂へ出る」

 その言い方で、第十二作と第十三作がさらに滑らかにつながった。

 庭に置かれたもの。

 火の遅さ。

 それらは門でいったん外へ返される。

 だが返されたからといって、宿のぬくもりがすべて消えるわけではない。

 人はそれを少し背中に残したまま、町の時間へ戻っていく。

 門の巻が描くのは、まさにその“背負ったままの一歩目”なのだろう。


「お父さんも」

 野島が続けた。

「その人かどうかは知らん」

「ええ」

「けど、そういう背中だった日があったかもしれんね」

「そうですね」

 湊は答えた。

「いまは、かなりそう思えます」


 午後、湊は一人で門から坂の少し下まで歩いてみた。

 門を出る。

 外の音が増える。

 潮の音は薄れ、代わりに町の足音や戸の開け閉めが近くなる。

 だが、たしかに数歩のあいだはまだ宿のほうの速度が身体に残っている。

 その数歩が、第十三作ではとても大きい。

 人は、門を出た瞬間に完全には変わらない。

 背中に少し残るぬくもりと遅さを持ったまま、町へ戻る。

 父の背中も、きっとそうだったのだろうと湊は思った。


 坂の途中で振り返ると、門はもう小さく見えた。

 それでも、半分だけひらいたかたちははっきり分かる。

 戻ってきてもよい。

 だが押しとどめもしない。

 その門のあり方そのものが、春口の宿らしかった。

 父がもしそこから出ていったなら、その背中は拒まれて出たのではなく、返されて出たのかもしれない。

 その違いは、とても大きい気がした。


 宿へ戻ると、汐里が帳場の脇で小さくメモを取っていた。

 どうやら、門で人がどこで足を止めるか、どの位置で外を見るかを記しているらしい。

 彼女もまた、ただ母の記録を読むのではなく、自分の目で“出ていく背中”の時間を見始めているのだろう。


「何を書いているんですか」

 湊が訊く。

「門の位置です」

「ええ」

「人によって、少しずつ違うので」

「どんなふうに」

「すぐ出る人もいるし」

「はい」

「門柱のところで一回だけ息を置く人もいる」

「……」

「振り返る人も、振り返らない人も」

「それを見てる」

「はい」

「どうして」

 汐里は少し考えてから言った。

「母がやっていたことに近づきたいのもありますけど」

「ええ」

「それだけじゃなくて」

「はい」

「人がどう町へ戻っていくか、前より気になるんです」

「かなり、第十三作ですね」

 湊が言うと、汐里は小さく笑った。

「本当に」


 その夕方、宿から出ていく近所の女が門のところで一度だけ振り返った。

 だがそれは別れを惜しむ振り返りではなく、門の内側の庭の遅さを少しだけもう一度見てから、坂へ出るための振り返りに見えた。

 振り返るかどうかは自由。

 だが、振り返れる位置を宿が残している。

 それが見送りの深さなのだろう。

 澄江も、そして今は汐里も、その位置に立ち始めているのだ。


 夜、ノートにはこう書いた。


 ――父の背中は、立ち止まる背中としてだけでなく、門を出て町へ戻る背中としても見えるようになってきた。

 ――急いでいるようで、急いでいない背中。

 ――まだ宿のぬくもりを少し背負ったまま、町の足へ変わっていく一歩目。

 ――澄江はその背中を返す人であり、門はそれを可能にする場所だったのだろう。

 ――第十三作は、父を“留まりの人”から“戻っていった人”としても受け取り直す巻なのかもしれない。

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