まちぼうけ
午後7時。仕事が早く終わって、僕は美鈴との待ち合わせのために駅近くのコンビニで車を止めていた。8月の夜は遅くて、夕焼けが街を赤く染めている。なんとなく車の外で待つ。
僕は夕日が好きだ。あわただしく動いていた昼の世界が静かな夜に変わっていく。ぎらぎらした陽の光が隠れ、やわらかい赤色になり、やがて月の帳が降りてくる。缶コーヒーを飲みながら特に意味もなく空を見ていた。
「はじめ?」
美鈴がきたのかなと思い、僕は笑顔で振り返る。違った。そこには赤ん坊を胸に抱いた女の人が立っていた。歳は僕と同じ頃、背はあまり高くない。髪が長い。染めてもいない。あまり手入れしてなさそうだ。外見に興味がないとばかりに、化粧をしていないし、ジャージ姿だった。荒れた肌は少し不健康そうだが不潔な感じではない。片手にいっぱいになったスーパーの袋があった。僕は一瞬固まった。
「やっぱり、はじめだ」
その人は村井紀子さん。僕の初恋の人だった。高校の同級生で、出会ったのは図書室。表情をくるくる回しながら楽しそうに本を読んでいた。図書委員だった僕が、閉館時間になってもまるで気づかない彼女に「もう閉まりますよ」と声をかけると、彼女は驚いて椅子から転げ落ちたのだった。それから照れ隠しのように少し話をして、そのうちお互いのこと、好きな本のことを教えあうようになった。ただそれだけの仲だった。
「えっと久しぶり」
「久しぶり」
「家、この近く?」
「うん、そうだよ。はじめは違ったよね? たしか」
「人と待ち合わせ中なのだ」
「ああ、なるほど。……ちなみに女の子?」
「そうだよ」
「ほぅ。相変わらずモテないのかと思ってた」
「失敬な!」
「はじめって敬うべき要素がないよね」
「し、失敬な……」
「まあそれがいいところなのだけど」
褒められたのかそうでないのかよくわからなかった。だいたい僕と村井さんはよく似ていた。だから僕に敬うべき点がないなら、それはそっくりそのまま村井さんにも当てはまると思う。
「はじめは今は?」
「普通に働いてるよ」
「就活に失敗しなかったかい?」
「意外なことに大丈夫だった。そっちはどうしてる? ……って聞くまでもないか」
僕は村井さんの胸で眠っている赤ん坊を見る。彼女によく似ている。きっと女の子だろう。
「うん、聞くまでもない感じに、主婦だね」
「専業?」
「そうだよ。君と違って就活に失敗したのだ」
「わお」
「正直へこんだ。自分の社会人としての価値がはじめ以下だったとは」
「君の僕への評価にすごく不当な物を感じる」
「え、はじめって社会不適合者の類でしょ」
さも当然のように言われた。
生きるのがつらくなった。
「おっと。そろそろ帰らなければ。ダーリンがお待ちなのだ」
「夫 (おっと)がお待ちなんですね」
ものすごく冷めた目で見られた。
「僕の方もそろそろ待ち合わせの時間だ。女の子と待ち合わせているところに別の女の子と仲良くお話していたら、彼女の機嫌的にすごく不味い」
「はじめが待ち合わせより早く来ているとは」
「……いや、実を言えばもう待ち合わせの時間を30分ほど過ぎてるんだけどね。彼女のほうがまだきていないのだ」
「おつかれ」
「仕事だから仕方ないさーって思っておくよ」
「大変だねー。じゃ、そろそろ行くよ、またね!」
村井さんは猫みたいに目を細めて微笑んで、それから帰っていった。呼び止めてみたかった。そして「実は僕は昔、君ことが好きだったんだ」と言ってみたかった。けれど飲み込んだ。人妻にそんなことを言うのは非常識だし、なにより卑怯だ。
僕は空を見た。8月の夜は遅い。なんとなく感傷に浸る。当然僕は今、赤羽美鈴のことが好きだ。けれど昔好きだった人と話せて喜んでいる自分がいた。「またね」と言われて嬉しいと感じている自分がいる。また話したいと思っている自分がいた。
そのうち美鈴がやってきた。「いやーせっかく仕事早く終わったのに、久々にジャンプ読んでたら電車乗り過ごしちゃったよ。あたし漫画に関しては古典派だと思ってたけど、最近の漫画もおもしろいねぇ」と言っていた。
「どうしたの? なんか変な顔してるけど」
僕は合計1時間待ったのだけれど、美鈴はまったく悪びれない。神経が太いのだった。
「自分が不健全で不誠実で本質的に間違っているタイプの人間なんだなーと噛み締めていた」
美鈴はきょとんとした顔でこういった。
「なにをいまさら」
まったくだ。




