第六章 王女の見ていたもの
墓所へ向かう道に、花屋はなかった。
当たり前のことだった。墓所へ向かう街道の脇に、花を売る店が出ているはずがなかった。老人は歩きながら、それを知っていた。知っていながら、道の脇を見ていた。見るものがないと分かっていながら、見ていた。
これも、足と同じ種類のことだった。
身体が、何かを探していた。
結局、花は見つからなかった。老人は手ぶらで墓所へ着いた。名のない石の前に立った。昨日の花は、まだあった。少し縮れていたが、形は保っていた。雪の中で、白く、あった。
老人は立ったまま、石を見た。
今日は膝をつかなかった。昨日、膝をついた。それで十分だと思った。十分かどうかを測る基準が、老人にはよく分からなかったが、とにかく今日は立ったままでいることにした。
風が来た。
花が揺れた。
揺れる花を見ながら、老人は一つのことを考えていた。考えたくなかったが、コレットの言葉が、昨日から老人の中にあった。
——王女様のことを知ってますよね。
知っている。
しかし何を知っているのか、と問われると、老人には答えが出なかった。
老人が知っているのは、十から十五歳の王女だった。廊下を歩いていた王女。庭で花に触れていた王女。市場へ変装して出ようとして、老人を困らせていた王女。誰も知らない詩歌を口ずさんでいた王女。
しかし、彼が見ていた王女は——王女の見ていたものを、どこまで見ていたか。
⸻
ある夜のことを、老人は思い出した。
王女は十三歳だった。少年の騎士は廊下の端で控えていた。王女の部屋の前だった。夜半を過ぎても、部屋の明かりが消えていなかった。異変があったわけではなかった。時々、王女はそういう夜を過ごした。眠れない夜を。
彼は廊下で立っていた。
盾として立っていることが、役割だった。
どのくらい経ったか、扉が開いた。王女が出てきた。寝間着のままだった。鉄の盾のように静かに立っている彼を見て、少し驚いた顔をした。
「まだいたの」
「職務ですので」
「真夜中でも?」
「道具は時を知りません」
王女はしばらく彼を見ていた。それから廊下の窓の方へ歩いた。彼はついて行った。ついて行くことが、職務だった。
王女は窓の外を見た。夜の庭が、月明かりの中にあった。
「疲れないの」
王女が言った。
「何がでしょう」
「いつも誰かのそばにいることが」
騎士は答えなかった。疲れるかどうかを、考えたことがなかった。考える種類のことではなかった。
「私は疲れるわ」
王女は言った。
「見られていることが。守られていることが。誰かがいつも、私の近くにいることが」
騎士は、その言葉を聞いた。
聞いて、何と答えるべきかを考えた。謝るべきか。しかし謝れば、職務を果たしていないことになった。職務を続けると言うべきか。しかしそれは、王女の言葉を無視することになった。
「申し訳ございません」
騎士は言った。考えた末に、それだけを言った。
王女は窓の外を見たまま、少し笑った。
「謝ることじゃないわ」
「しかし——」
「疲れると言ったのは、あなたのせいじゃない。こういう場所に生まれたことへの、愚痴よ」
騎士は黙った。
「あなたはそこにいていい。いてくれた方がいいかもしれない。ただ、時々、誰もいない場所に立ってみたくなる。それだけ」
誰もいない場所に立ってみたくなる。
王女は窓の外を見ていた。月が庭を照らしていた。
「あなたは怖いと思わないの?」
王女が言った。
「何がでしょう」
「私がいなくなること。騎士が王女を守れなくなること。そういうこと」
「それは職務上あってはならないことです」
「あってはならないことは、起きないの?」
騎士は答えられなかった。
「起きるかもしれない」
王女は言った。騎士への問いではなく、庭へ向けた言葉のようだった。
「起きたとき、あなたはどうするつもりなの」
騎士は、その問いを聞いた。
聞いて、答えを探した。職務として答えるなら、全力で防ぐと言うべきだった。しかし王女は職務の答えを求めていなかった。
「分かりません」
騎士は言った。
王女は振り返った。騎士を見た。十三歳の顔をしていたが、その目だけは違ってみえた。
「正直ね」
王女は言った。
「騎士らしくないかもしれません」
「そんなことはないと思う」
王女はもう一度、窓の外を見た。
「答えが分からないまま、それでもそこにいること。それが本当の強さかもしれない。私にはよく分からないけれど」
騎士は何も言わなかった。
「おやすみなさい」
王女は言って、自分の部屋へ戻った。
扉が閉まった。
廊下に、騎士だけが残った。月明かりが窓から差し込んでいた。騎士はその光の中で、しばらく立っていた。
答えが分からないまま、それでもそこにいること。
それが本当の強さかもしれない。
騎士は、その言葉を、正しいと思った。正しいと思ったから、それ以降もそこにいた。翌日も、その翌日も。別れの日まで。
⸻
老人は、石を見ていた。
王女が言っていたことを、老人は長い年月、忠誠の証として受け取っていた。そこにいることが正しい、と王女が言ってくれたと。
しかし今、別の読み方が見えていた。
王女は、誰もいない場所に立ちたいと言っていた。見られることに疲れると言っていた。そして、そこにいていいと言った。
それは、矛盾していた。
矛盾していたから、どちらが本当だったのかを、老人はずっと知らなかった。知ろうとしなかったのかもしれなかった。どちらかを選べば、もう一方が崩れた。だから選ばずに、ただそこにいた。
王女の言葉のどちらかが嘘だったのか。
そうではないと、老人は思った。
どちらも本当だったのだ。
疲れることと、それでもいてほしいことが、同時に本当だった。王女はその矛盾を抱えたまま、彼に向かって話していた。
しかし彼は、「いてくれた方がいい」の方だけを持ち帰った。
「疲れる」の方を、どこかに置いてきた。
老人は、花を見た。
名も知らない白い花が、雪の中にあった。老人の知らない誰かが置いた花が。
誰もいない場所に立ちたい、と言っていた王女の墓前に、今、老人はいた。
それが皮肉なのか、それとも別の何かなのか、老人には分からなかった。
ただ、これだけは分かった。
王女の言葉は、老人が思っていたより、ずっと多くのものを含んでいた。含んでいたのに、老人は一つを取り出して、残りを見なかった。
旅芸人は言っていた。
——歌ってのは、欲しいから広まる。
老人は、欲しい方を取り出していた。
記憶も、そうだった。
老人は踵を返した。
帰り道、空を見た。雲がいくらか薄くなっていた。光が、昨日より少し強かった。
まだ春ではなかった。
しかし、雪は、昨日より少しだけ、少なかった。
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*(第六章、了)*




