第五章 コレットの王女
翌朝、老人はトライコン亭へ戻った。
戻るつもりはなかった。街道沿いに別の宿があったし、そちらの方が墓所からは近かった。しかし足が、トライコン亭の方角へ向いた。今更この足に驚くことはなかった。こういう足だと、昨夜から老人は改めて知っていた。
食堂は朝の時間だった。
夜の混み方とは違う種類の人間が座っていた。これから出発する旅人、早朝から動いている行商人、近隣の者らしき顔。昨夜の三人組はいなかった。それは老人にとって、特に喜ばしいことでも安堵することでもなかったが、食事が静かに取れるという点では良かった。
コレットがいた。
盆を持って、慣れた動きで食堂を動いていた。老人が入ってきたことに気づいて、一瞬だけ足を止めた。それから、また動いた。老人の席まで来たのは、少しして後だった。
「また来ました」
コレットは言った。
責めているのではなかった。確認していた。また来た、という事実を、少し驚きながら確認していた。
「また来た」
老人は言った。
「昨日、南へ行くと言ってましたが」
「足が戻ってきた」
コレットは一瞬、老人の足を見た。それから老人の顔を見た。何かを言いたそうな顔をして、しかし言わなかった。代わりに聞いた。
「朝食はどうされますか」
「あるものをもらおう」
「パンと、スープと、塩漬けの魚があります」
「それで構わない」
コレットは厨房へ戻った。老人は食堂を見た。十二人。昨夜より少なかった。窓の外に、朝の光があった。雪は夜のうちに止んでいた。
朝食が来た。
パンは温かかった。焼きたてではなかったが、温め直してあった。スープは薄かったが、体には良さそうだった。老人は食べた。食べながら、コレットがまた戻ってきていることに気づいた。
今度は盆を持っていなかった。
「少し聞いても良いですか」
コレットが言った。
老人は食べながら答えなかった。答えないことを、否定と取らなかったのか、コレットは椅子を引いて向かいに座った。この少女は、座って良いとは言っていないのに座る。昨日もそうだった。
「王都から来たと言ってましたよね」
「北から来たと言った」
「北は王都より北でしょう。だから王都も通ってきたはずです」
老人はスープを飲んだ。
「王都で、王女様のことを聞きましたか」
老人は、動かなかった。
動かなかったが、スープの椀を置いた。置いてから、コレットを見た。コレットは真っ直ぐに老人を見ていた。昨夜と同じ目だった。子供の目だった。しかし問いは、子供の問いではなかった。あるいは、子供だからこそできる問いだった。
「王女とは」
「王女様です。亡くなった王女様。昔の王様の娘の」
老人は、パンを手に持ったまま、止まっていた。
「なぜ聞く」
「昨日、旅芸人が来て、王女様の歌を歌っていたので」
老人は少し間を置いた。
「もう来ているのか」
「朝から来て、食堂の隅で歌いました。お客さんが何人か聞いていました。私も聞きました」
老人はパンを食べた。
「どんな歌だった」
「悲しい歌でした。でも悲しいだけじゃなくて、少し変な歌でした」
「変な」
「騎士が出てくるんですが、その騎士がずっと剣を持ってるんです。花を持てって言われてるのに、最後まで剣を持ってる。なんで花を持てばいいのに持たないんだろうって、思いました」
老人は、パンを食べ続けた。
「知ってるんですか、王女様のこと」
コレットが聞いた。
「知らない」
「でも、なんか知ってる顔してます」
老人はコレットを見た。コレットは真剣な顔をしていた。十二か三の顔で、真剣に、老人が何かを知っていると確信している顔だった。
「お前は王女のことを知っているのか」
老人は聞いた。
「私が知ってるのは、歌とか噂とかだけです」
「どんな王女だと思っている」
コレットは少し考えた。考えながら、テーブルの端を指でなぞった。昨日もそうしていた。考えるとき、この少女の指は動いた。
「民のことを考えていた人だと思います。だから今の政府に疎まれて、殺されたんだと思います」
「殺された、と思っているのか」
「違うんですか」
老人は答えなかった。
違うとも、そうだとも、言えなかった。コレットの言葉は、民衆の間で流通している王女像だった。正しい部分もあった。しかし正しくない部分もあった。どちらが多いかは、老人には分からなかった。分からない、というより、答えを出すための材料が、老人の中にも足りなかった。
老人が見ていた王女は、十から十五歳の王女だった。その王女は確かに、民のことを考えていた。身分秩序を面白がって越えようとしていた。しかし殺されるほどの政治的存在だったかどうかを、老人は知らなかった。その時期の王女を、老人は知らなかった。
「歌が好きだったと聞きました」
コレットが続けた。
「誰から」
「旅芸人から。今日の歌の後で少し話しました。古い悲歌が好きで、でも悲劇に酔うんじゃなくて、悲しみを終わらせる方法を探してた人だって」
老人は、止まった。
悲しみを終わらせる方法を探していた。
それは、老人も知っていた。あの廊下で、古い悲歌を口ずさみながら、なぜ悲しい歌は終わりを持っているのかと言っていた王女を、知っていた。
しかしその言葉を、旅芸人はどこで得たのか。
「旅芸人がそう言ったのか」
「はい。各地で聞いた話を繋ぎ合わせたら、そういう人だったように思えると言ってました」
各地で聞いた話を繋ぎ合わせた。
老人は、それを聞いて、奇妙な感覚を持った。旅芸人は王女を知らない。しかし断片を集めて、輪郭を作っていた。その輪郭の一部が、老人の知っている王女と重なっていた。
完全には重ならなかった。しかし一部は、重なっていた。
知らない人間が集めた断片の中に、本当の欠片が混じっていた。
「あと」
コレットが言った。
「お墓に花を供えるのが好きだったって話も聞きました。自分が死んだら、名前より花がいいって言ってたって、どこかの村の古い人が言ってたって」
老人は、スープの椀を見た。
空になっていた。いつ飲み干したのか、気づいていなかった。
「どこかの村の古い人が」
老人は繰り返した。
「はい。旅芸人がそういう村を回って、聞いてきたみたいです」
老人は、しばらく、空の椀を見ていた。
王女の言葉が、村に残っていた。老人の知らない経路で、老人の知らない誰かに伝わり、村の記憶になっていた。そして旅芸人がそれを集めて、コレットに話した。コレットが今、老人に話している。
王女の言葉が、老人の知らない場所を通って、老人の元へ戻ってきていた。
「その王女様のこと」
コレットが言った。
「知ってますよね」
老人はコレットを見た。
コレットは、やはり真っ直ぐに見ていた。確信していた。根拠があって確信しているのではなく、何かを感じ取って確信していた。子供の、理屈ではない確信だった。
「知らない」
老人は言った。
これは、嘘だった。
昨日と同じ嘘だった。しかし昨日と今日では、この嘘の重さが、少し違った。昨日は防いでいた。今日は、何かを守っていた。何を守っているのかを、老人はまだ正確には分からなかった。
コレットは、納得していない顔をした。
しかし今日は、それ以上追わなかった。代わりに立ち上がりながら言った。
「また来ますか」
老人は答えなかった。
窓の外に、雪の止んだ朝があった。光は弱かったが、昨日よりは強かった。
「来るかもしれない」
老人は言った。
初めて、そう答えた。
コレットは何も言わなかった。しかし何かを、その顔に持った。何と呼ぶべきか老人には分からない何かを。満足とも違い、安堵とも違い、ただ何かが、その十二か三の顔にあった。
コレットは厨房へ戻った。
老人は食堂に少しいた。
それから外へ出た。
雪の止んだ街道は、昨日より歩きやすかった。老人は歩きながら、コレットの言葉を持っていた。悲しみを終わらせる方法を探していた。名前より花がいいと言っていた。
どちらも、老人が知っていることだった。
しかし老人は、コレットに教えなかった。
なぜ教えなかったのかを、老人は歩きながら考えた。考えながら、答えが出ないまま、墓所の方角へ向かっていた。
今日は、花を持っていくべきかもしれなかった。
持っていくべきか、という問いが生まれたこと自体が、昨日までとは違っていた。
老人は街道の脇を見た。雪の下に、何かが眠っていた。春になれば、出てくるものが、あるかもしれなかった。
今は、雪の季節だった。
老人は歩いた。
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*(第五章、了)*




