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第三章 名のない石

墓所は、夜の中にあった。


当たり前のことを言っているようだが、これは老人にとって重要な事実だった。昼間の墓所と夜の墓所は、同じ場所でありながら、別の場所だった。昼間は石が石として見えた。夜は石が夜の一部になった。境目が曖昧になった。どこまでが石でどこからが影なのか、老人の目にも、夜の墓所ではすぐには判断できなかった。


老人は王家の墓所の外れへ向かった。

いつも通りの経路だった。いつも通りの足運びだった。しかし今夜は、いつもと違うことがあった。老人は歩きながら、旅芸人の言葉を聞いていた。聞いていた、というのは記憶の中で、という意味だ。

いつも花が一輪、置いてある。

老人は、その言葉を、宿の食堂で政変の噂を聞いたときと同じ種類の重さで受け取っていた。知りたくなかったが、知ってしまった重さ。知ってしまったからには、確かめなければならない重さ。

名のない石が、見えた。

老人は足を止めた。

石は、いつも通りそこにあった。雪が積もっていた。積もり方は昨日と少し違ったが、それは今日の雪の降り方の違いによるものだろうと老人は思った。

しかし石の前に、何かがあった。

老人は近づいた。

花だった。

小さな花だった。白い花だった。この季節に野に咲く花ではなかった。どこかで育てたものか、あるいは遠くから持ってきたものか。花弁は少し縮れていたが、まだ形を保っていた。茎の根元が雪の中に埋まっていた。そうすることで、花を立てていた。誰かが、そうするために、雪に挿した。

老人は花を見た。

長い間、見た。

触れなかった。触れることが、なぜかできなかった。この花は老人のものではなかった。老人が置いたものではなかった。老人が知らない誰かが、老人の知らない理由で、老人の知らない時間に、ここへ来て、置いた。

誰かが、ここへ来ていた。

老人以外の誰かが、この名のない石を知っていた。

そのことが、なぜか、老人を動揺させた。動揺、という言葉は正確ではないかもしれない。何かが揺れた、という感覚だった。長い年月、動かないものとして自分の内側に置いていた何かが、少し、位置をずらした。

老人は石の前に膝をついた。

膝をつくのは久しぶりだった。いつも立ったままここに来た。膝をつくことが、何かを意味しそうで、避けてきた。しかし今夜は、膝が折れた。折れた、という表現が最も近かった。意志で折ったというより、重さに負けた、という意味で。

花を、間近で見た。

白い花だった。名前を、老人は知らなかった。花の名前を、老人はあまり知らなかった。王宮の庭師が何かを育てているのを見たことはあったが、名前を覚えることには関心がなかった。ただ、この花を一度だけ見たことがある気がした。見たことがあるような気がする、という程度の記憶だったが。

廊下ではなかった。庭だった。

王宮の庭に、春が来た日のことを、老人は思い出した。

思い出した、というより、思い出させられた。思い出したくなかったが、花が、そこへ連れて行った。

王女は庭を歩いていた。一人で歩いていた。騎士は数歩後ろに、いつものように、控えていた。王女は立ち止まり、足元の花を見た。白い小さな花だった。庭師が植えたものではなく、石畳の隙間から出てきたものだった。

「これ、名前はあるのかしら」

王女が言った。

「存じません」

騎士は答えた。知らなかった。

「庭師に聞いたら、自分も知らないと言っていたの。ずいぶん前から咲いているのに、誰も名前を知らないって」

王女は少し不思議そうに言った。それから、何かを考えるような間があった。

「名前のない花があっても良いと思うわ」

王女は言った。

騎士は答えなかった。答えるべき言葉が、その瞬間には出なかった。

「名前がついた途端に、皆が同じものを見るようになるでしょう。名前がなければ、見た人がそれぞれ、違うものを見られる」

王女はしゃがんで、花に触れた。触れただけで、摘まなかった。

「私が死んだら」

騎士は、背筋が伸びた。

「名前より花の方がいいわ。名前は誰かが決めてしまうから」

「そのようなことを仰ってはなりません」

騎士は言った。言いながら、その言葉が正しいかどうか、少しだけ考えた。騎士として正しい返答だった。しかし王女の言っていることを、遮るべきだったかどうかは、分からなかった。

王女は立ち上がって、騎士を見た。

「あなたは真面目すぎるわ」

「騎士とはそういうものです」

王女は少し笑った。笑いながら、もう一度花を見た。

「名前より花の方がいい。覚えておいて」

騎士は答えなかった。

覚えておいて、という言葉を、老人はその後、長い年月のうちに何度も思い出した。思い出すたびに、自分がその言葉を守っていないことを知った。石の前に立つだけで、花を持ってきたことは、一度もなかった。


老人は、花を見ていた。

誰かが持ってきた花を。

老人ではない誰かが、王女の言葉を知らずに、あるいは知っていて、ここへ置いた花を。

王女は言っていた。名前より花がいいと。

老人は名前も花も持ってこなかった。ただ立っていた。ただそこにいた。それが自分のやり方だと思っていた。思っていたが、それが王女の望んだものだったかどうかは、一度も確かめなかった。確かめる機会を、自ら断ち切ったから。

誰かが花を持ってきた。

王女の望みを、老人より正確に、知らない誰かが叶えていた。

老人は花に触れた。

今度は触れることができた。花弁の端に、指の先だけで、触れた。冷たかった。雪の中にいた花の、冷たさだった。しかし形は、まだあった。

老人は立ち上がった。

膝が、少し痛んだ。老いた膝だった。人狼の老いは早い。老人はそのことを、若い頃から知っていた。知っていたが、この膝の痛みが、今夜は少し違う意味を持って感じられた。

急いで老いていく身体。

急いで老いていくうちに、見逃してきたものがある。

石の前に立ち続けながら、石の前に花を置かなかった。それが一つ。

別れの後の王女の時間を、一日も見なかった。それがもう一つ。

老人は、石から目を離さなかった。

名のない石は、夜の中にあった。花が一輪、その前にあった。老人の知らない誰かの、老人の知らない悼みが、雪の中で、まだ形を保っていた。

風が来た。

花が、少し揺れた。

老人は、その揺れを見た。見ながら、旅芸人の言葉を思った。

——歌ってのは、正しいから広まるんじゃなくて、欲しいから広まる。

花も、そうかもしれなかった。

正しいから置くのではない。欲しいから置く。王女に花を欲しいと思った誰かが、置いた。老人は王女に花を欲しいと思わなかったのか、それとも思っていたが別の何かを優先したのか、今となっては老人自身にも分からなかった。

分からないことが、長い年月のうちに、増えていた。

王女について分からないことが。自分自身について分からないことが。

老人は踵を返した。

今夜はここに長くいるつもりはなかった。来て、確かめて、それで十分だった。

十分か、と自問した。

十分ではなかった。しかし十分にするしかなかった。それが老人のやり方だったから。長い年月、そのやり方でやってきたから。

墓所の外れを出るとき、老人は一度だけ振り返った。

名のない石と、白い花と、雪。

三つが、夜の中にあった。

老人は、その三つを、目に入れた。入れた、というより、持っていくことにした。今夜の墓所の、その三つを。どこへ持っていくのかは分からなかった。ただ、置いていきたくなかった。

老人は歩いた。

街道の方向へ戻る道の途中に、旅芸人の野営火がある。まだ燃えているかもしれなかった。消えているかもしれなかった。

老人は、続きを聞きたいとは思っていなかった。

思っていなかったが、足は街道の方角へ向いていた。

これも、この足のいつもの余計なことだった。

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*(第三章、了)*

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