第二章 歌の持ち主
雪が、また降り始めていた。
墓所へ向かう街道は、昼間でも人通りが少なかった。夜ともなれば、ほとんど誰も歩かない。歩く必要のある者だけが歩く道だった。老人はその道を、足元を確かめながら歩いた。確かめながら、というのは正確ではなかった。老人の足は雪道に慣れていた。慣れているというより、足が勝手に道を知っていた。
暗かった。
月は雲の向こうにあり、街道に落ちる光は乏しかった。しかし老人には、それで十分だった。十分すぎるほどだった。暗闇の中で世界が見えること、それもまた老人の本質の一部だった。隠してきた本質の、一部。
火が見えた。
街道脇の窪地に、小さな野営火が燃えていた。老人は足を止めた。止めた、というより、足が止まった。なぜ止まったのか、最初は分からなかった。
それから気づいた。
歌が聞こえていた。
宿屋の戸口で聞いた歌だった。同じ旋律だった。しかし宿で聞いたときより、もう少し丁寧に歌われていた。酔客の鼻歌ではなかった。声は安定していた。どこかで習ったのか、あるいは何度も歌ってきたのか、そういう安定さがあった。
雪のしずくと踊る姫君は
花の名を知らずに眠りぬ
忘れな草よ、咲き誇ること勿れ
御名はとうに風に消ゆる
老人は、聞いていた。
続きがあった。
宿屋の戸口で聞いたのは最初の一節だけだった。続きがある歌だった。続きを、老人は知らなかった。「忘れな草よ、咲き誇る事勿れ」——咲き誇らせてはならない理由が、老人には分かった。忘れな草は記憶のための花だ。記憶してはならない名がある。政変後に汚名を着せられた名が、あった。
老人は窪地へ向かった。
向かうつもりはなかった。しかし足が向いた。この足は今夜、二度目の余計なことをしようとしていた。
火のそばに、人影があった。
毛布にくるまって、火に手をかざしながら、歌っていた。老人が近づいても、歌は止まらなかった。気づいていないのか、それとも気づいていて止めないのか、判断がつかなかった。人影は小柄だった。年齢は、よく分からなかった。顔の半分が影の中にあり、残り半分が火に照らされていたが、その半分だけでは判断の材料が足りなかった。
老人は火の向こうに立った。
歌が、止まった。
人影が老人を見上げた。目が、火の光を受けていた。
「続きを知ってるか?」
人影が言った。
謝らなかった。驚きもしなかった。夜の街道で見知らぬ老人に見下ろされながら、ただそれだけを言った。続きを知っているかと。
老人は答えなかった。
「知らないか。残念だ」
人影は言った。それから火に視線を戻した。追い払われたわけでもないと判断したのか、あるいは最初から追い払われるつもりがなかったのか、老人の傍らに腰を落とすことなく、しかし去ることもなかった。
「座るか?」
人影が言った。
老人は答えなかったが、火の横の地面を見た。座るには冷たそうだった。
「立ったままでもいい」
人影は言った。
老人は立ったままでいることにした。
しばらく、沈黙があった。火が燃える音だけがあった。雪が降っていたが、窪地は風が弱く、炎は安定していた。老人は炎を見ていなかった。人影を見ていた。
「その歌は」
老人は言った。
「ん?」
「どこで覚えた」
人影は少し考えるような間を置いた。考えているのか、それとも考えているふりをしているのか、老人には判別できなかった。
「各地で聴いた。繋ぎ合わせた」
人影は言った。
「各地で?」
「同じ歌が、いろんな形で流れてる。村によって歌詞が違う。節が違う。歌われる場所も違う。酒場で歌う村もあれば、子守唄にしてる村もある」
老人は何も言わなかった。
「面白いと思わないか」
人影が言った。
「何が」
「誰も作っていないのに、ある。誰も教えていないのに、広まっている。王女の歌なんて、本来なら今の政府が禁じそうなものなのに」
老人の何かが、僅かに、動いた。動いた、というのは内側での話だった。外側には何も出ていないはずだった。しかし人影は、その瞬間に老人を見た。
「知ってる顔だな」
人影が言った。
「何を」
「王女のことを。歌の中の姫君じゃなくて、本物の方を」
老人は答えなかった。
「違うか?」
「続きはまだあるのか」
老人は話を変えた。
人影は少し笑ったような気がしたが、火の陰で表情は見えなかった。
「ある。でも各地でまた違う。ある村ではこの後、騎士が出てくる。姫君を守って死んだ騎士の話になる。別の村では、姫君は実は生きていて、どこかで民と一緒に暮らしているという続きになる」
「どれが正しい」
「さあ」
人影は言った。
さあ、という答えを、老人は予想していなかった。予想していなかったから、次の言葉が出るまでに間があいた。
「歌を広めている者が、正しいかどうかを気にしないのか」
「気にしたら広まらない」
人影は言った。
「歌ってのは、正しいから広まるんじゃなくて、欲しいから広まる。その村の人間が欲しい姫君が、その村の歌になる。英雄が欲しければ騎士が出てくる。希望が欲しければ姫君は生きている。悲劇が欲しければ、春を知らずに眠る」
老人は火を見た。
炎が、揺れていた。
「ことわざとにているのだな」
「…、ことわざとはなんだ?」
「情けは人の為ならずとかなんとかそういうものだ」
「なんだかわかったようなわからんような感じだな」
パチンと火の粉が飛んだ。
「あんたは何が欲しい」
人影が言った。
老人は答えなかった。
「まあいい」
人影は毛布を引き直した。眠るつもりらしかった。
「ここを通るなら墓所の方か。あそこに名前のない石があるだろう。いつも花が一輪、置いてある」
老人は人影を見た。
「ただの大きな石に見える。誰かの墓標なのか。誰が置いてるか知らないが、雪の中でも必ずある。枯れた花の下に、新しい花が。律儀なもんだと思ってたが」
人影の声は、特に何かを含んでいるふうではなかった。道端の話をするように、言った。
老人は、花のことを知らなかった。
自分が花を置いたことはなかった。石の前に立つだけだった。では誰が——老人の思考が、そこで止まった。止めた、というより、それ以上進むことができなかった。
「名前は」
老人は言った。
「あんたの?」
「お前の」
人影は少し間を置いた。
「旅芸人、とでも呼んでくれ。本当の名前は各地で変えてるから、自分でも分からなくなってきた」
老人は、その答えを聞いた。
聞きながら、この者は嘘をついていると思った。しかし嘘の種類が分からなかった。名前を持たないのが嘘なのか、それとも名前を持たないこと自体が、何らかの意味で本当なのか。
「名前のない者が二人、墓所の方向に向かうか」
旅芸人が言った。眠るのをやめたらしかった。
「私は一人で行く」
老人は言った。
「そうか」
旅芸人は毛布にくるまったまま言った。引き留めなかった。引き留めないことが、何か別の意図を含んでいるような気がしたが、老人にはその意図が読めなかった。
老人は歩き始めた。
「続きが知りたくなったら声をかけてくれ」
背後で旅芸人が言った。
老人は振り返らなかった。
「歌のことだよ」
旅芸人が付け加えた。
老人は、その付け加えが余計だと思った。歌のことだとは、分かっていた。分かっていたが、一瞬だけ、別のことを考えた。考えてしまった。知ってしまった、という意味での、考えてしまった。
墓所は、まだ遠かった。
雪の中を、老人は一人で歩いた。
背後の火は、やがて見えなくなった。しかし旋律は、どこかにまだあった。老人の耳の中に、あるいは雪の中に。
忘れな草よ咲かないでくれ
あの方はもう、名を持たぬゆえ
老人は歌わなかった。
歌えなかった。
なぜなら、続きを知らなかったから。
あの方の続きを、老人は知らなかった。別れの後の、王女の続きを。二十三か二十五の年まで続いたはずの、王女の時間を。老人は一日も見ていなかった。
知らない続きが、雪の中にあった。
名のない石のそばに、花が一輪、あるかもしれなかった。
老人は、まだ、それを確かめていなかった。
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*(第二章、了)*




