第一章 宿屋の食堂、あるいは余計なこと
宿屋の名前は「トライコン(三本角)亭」といった。
看板には確かに三本の角が描かれていたが、それが何の角なのかは判然としなかった。鹿にしては太く、牛にしては細く、何かの想像上の獣のものであるように見えたが、看板自体がずいぶんと古く、塗料が剥げて輪郭が曖昧になっていたので、そもそも正確に判断すること自体が難しかった。老人はその看板を一度だけ見上げ、それから視線を落として扉を開けた。看板の正体を調べる気はなかった。
食堂は混んでいた。
混んでいる、とはいっても、活気があるという意味ではなかった。人が多い、という意味だった。どこか余所から流れてきた者たちが、それぞれの事情を抱えて、それぞれの沈黙の中に座っていた。そういう種類の混み方だった。街道沿いの宿がそうであるように、ここにいる人間の大半は、どこかへ向かっている途中か、どこかから逃げてきた途中かの、どちらかだった。
老人は隅の席を選んだ。
壁を背にして、出口が正面に見える位置。これは習慣だった。考えてそうしたわけではなかった。足が自然に、すべての気配に注意を払いながら隅へ向かった。長い年月で染み込んだ感覚が、今も老いた身体の中に何気ない振る舞いとして残っていた。
十七人。
食堂に入った瞬間から、老人は数えていた。数えるつもりはなかったが、数えていた。
そのうち、三人組が一つ。
奥のテーブルに座り、酒を飲んでいた。しかし彼らの振る舞いは、酒を楽しんでいる者のそれではなかった。三人はそれぞれ違う方向を見ていたが、その視線には一定の秩序があった。品定めをしていた。食堂の中の、誰かを。
少女が来た。
十二か三、といったところだろうと老人は思った。この宿の娘か、あるいは使用人か。エプロンをしており、髪を無造作に括っており、手に木製の盆を持っていた。
「何になさいますか」
少女は言った。しかしその目は、老人を観察していた。子供特有の、隠す気のない好奇心で。
「シチューをもらおう。酒は不要だ、水で構わない」
少女は一瞬、何か言いたそうな顔をしたが、結局何も言わず、厨房の方へ戻っていった。
シチューは思ったより早く来た。根菜と獣肉と香草の混じった匂いが老人の鼻に届いた。腹が鳴った。静かに、内側で。
少女はその後も老人の傍らに立ち、王都のことを聞いた。少女の名はコレットといった。
「大事なのは、新しい官吏が、ここまで来るかどうか、です」
コレットが可愛らしい鼻を膨らませながら精いっぱい大人びた口調でそう言った。
老人はシチューを一口食べながら、来るかもしれないと答えた。コレットは知っていたという顔をした。知っていたけれど、聞かずにいられなかった、という顔だった。
そこで、食堂の空気が変わった。
奥の三人組が立ち上がっていた。
三人は厨房に近いカウンターへ向かっていた。そこに、初老の宿の主人がいた。主人は三人組を見て、老人の知らない表情をしていた。見慣れた恐怖、とでも言えばいいか。初めて怖いのではなく、また来た、という種類の怖さ。
コレットが、老人の傍らで、息を小さく止めた。
老人はシチューを食べた。
しかしコレットが動いた。カウンターの方へ向かおうとした。三人組の一人が少女に気づき、笑った。良い笑い方ではなかった。
「言いがかりはやめてください」
コレットが言った。
声は震えていなかった。しかし小さかった。
男の一人が少女の腕を掴んだ。
老人は「ふう」と重たい息を吐き、シチューの皿を置いた。
置いた、というより、気がついたら置いていた。椅子を引く音が食堂に響いた。老人が立った音だった。
老人は立ち上がりながら、卓上の布——食器を拭くために畳まれて端に置いてあった一枚の古い布——を、ごく自然に、手に取った。それだけだった。武器を抜くわけでもなく、拳を固めるわけでもなく、ただ布を一枚、持ちくちをぬぐい前へ進んだ。それだけのことだった。
三人組の方へ歩いた。
歩きながら、自分でも少し呆れていた。もう関係のないことだった。しかし足が向いた。
⸻
三人組の先頭の男が、老人を見てばかにしたように鼻で笑った。
老いた旅人が何をするつもりだ、という笑いだった。腰のナイフに手をやり、一歩踏み出した。どすの利いた顔つきをしようとしていた。どすの利いた顔つきとはどういうものか、少なくともこの男はそれを知っていると思っていた。
次の瞬間、男のズボンが、すとんと落ちた。
音もなく、鮮やかに。
老人の手の布が、ごく小さく、ごく速く、一度だけ動いた。それだけだった。男は自分のズボンが落ちたことに気づくのに、一瞬かかった。気づいた後、顔が赤くなった。ナイフを抜くよりも先に、少し血のにじんだ両手でズボンをたくし上げた。それが精一杯だった。
男は何も言えなかった。
老人は男にはもう一瞥もせず、二人目の方を向いた。
二人目の男は、それを見ていた。一部始終を見ていた。何が起きたのか正確には分からなかったが、分からないからこそ怖かった。男はナイフを抜いた。抜いたところまでは良かった。
老人は布を、ゆっくりと振った。
ゆっくりと、しかし正確に。布が空気を切った音は、小さかった。しかしその風圧が、二人目の男の顔に届いた。届いた、というより、届いた、と男が感じた。それだけで、男の足が一歩、後ろへ出た。自分の意志ではなく。
男は自分の足を見た。自分の足が後ろへ出たことを、信じられない目で見た。
老人は二人目も振り返らなかった。
三人目が来た。
三人目は、他の二人とは少し違った。立ち姿が違った。足の置き方が違った。目の動き方が違った。老人は三人目を見て、ああこれは多少できる、と思った。多少、というのは、老人の基準での多少だったが。
三人目は腰のナイフを抜いた。抜き方は綺麗だった。構えも悪くなかった。それから、口を開いた。
「爺さん、そのくらいにしておいてくれ。うちらも商売でやってんだ。怪我をしたくなければ——」
老人は聞いていた。
聞きながら、フォークを手に取った。
食卓に残っていたフォーク、シチューを食べるための、鉄製の、三又のフォークを。
三人目の男がまだ話しているうちに、老人はフォークを動かした。
男のナイフが、手から消えた。
消えた、というのは比喩ではない。男は自分の手にナイフがあったのに、次の瞬間にはなかった。痛みはなかった。衝撃もほとんどなかった。ただ、なくなっていた。
老人の手にフォークがあった。フォークの又の間に、男のナイフが挟まっていた。綺麗に、確かに。
男は自分の手を見た。空になった手を、しばらく見ていた。
老人はナイフをフォークから外し、男に差し出した。
柄の方を向けて。
「なっ」
男は言った。声が少し上ずっていた。
老人は何も言わなかった。ただ差し出した。
男はナイフをひったくるように受け取った。受け取ったが、どうすれば良いか分からなくなっていた。男にとって永遠といえるくらいの長い時間が続いた。
老人は相手の緊張を破るように軽やかに一歩、引いた。構えを取るわけでもなく、ただ一歩、引いた。間合いを開けた。もう一度どうぞ、とでも言うように。
男は覚悟を決めナイフを握り直した。
老人はまたフォークを動かした。
男のナイフが、また消えた。
今度はもう少し速かった。フォークの動きは、最初より小さかった。より無駄がなかった。老人にとっては、速くしているのではなく、丁寧に見せているつもりだった。
老人はまたナイフを外し、また差し出した。
「……何のつもりだ」
男は言った。声はもはや凄みではなかった。
老人は初めて口を開いた。
「少しはできそうだと思ったんでな、少しけいこでもと思ったが…」
言ってから、窓のほうを見やりつつ少し間を置いた。
「…、まっ、やめておこうかな。年寄りの時間は短いからなぁ…、みなまで言わすな」
それだけ言うと、これまたゆっくりとフォークでナイフの刀身をなぞりバターのように切り落として見せた。
⸻
三人組が出ていくまで、さほどかからなかった。
何があったかを正確に描写することは難しい。食堂の中の人間たちは、後にそれぞれ違うことを言った。老人が何か言ったという者もいた。何も言わなかったという者もいた。布が光ったという者もいれば、布など持っていなかったという者もいた。三人目が何度も武器を取られたことは全員が見ていたが、何度だったかについては、二度という者と三度という者と、数え切れなかったという者に分かれた。
確かなのは、三人組が出ていったということだけだった。
老人は自分の席に戻った。
シチューはまだ温かかった。食べた。フォークで。
コレットが戻ってきた。
今度は盆を持っていなかった。両手を前で組んで、老人の前に立っていた。可愛らしい鼻はさらに膨らんでおり、その目は、先ほどまでの好奇心とは、少し違う色をしていた。好奇心は残っていたが、その下に、何か別のものが混じっていた。
「ありがとうございました」
とコレットは言った。
「礼には及ばない。余計なことをした」
「余計じゃないです」
「私には余計なことだった」
コレットはしばらく老人を見ていた。それから、椅子を引いて、向かいに座った。
「お名前は何とおっしゃるんですか」
老人は少し考えた。
名前は、あった。しかし本当の名前は、ずっと前に、別の場所に置いてきた。あの廊下に。鎧と一緒に。
「名はない」
「名前のない人なんていません」
「では、忘れた」
コレットは納得していない顔をしたが、それ以上は聞かなかった。代わりに言った。
「私はコレットといいます」
老人はシチューとパンを食べ終え代金をテーブルの上に置き静かに立ち上がった。
「また来ますか」
コレットが言った。
老人は答えなかった。
扉を開けて外へ出る前に、どういうわけか一度だけ振り返り見たくなった。
コレットが見ていた。十二か三の少女が、盆を抱えて、子どもと大人の中間の人の持つ真っ直ぐな目で老人を見ていた。老人の知らない王女の歌を、いつともなく、誰かから聞いて育った少女が…。
老人は少し頭を下げるようなしぐさの後に、静かに扉を閉めた。
冷たい空気が顔に当たった。
そのとき、背後で誰かが歌っていた。
酔客の鼻歌のようにも聞こえたし、風の音のようにも聞こえた。女の声にも聞こえたし、若い男の声にも聞こえた。食堂の喧騒に紛れた、ごく小さな歌だった。しかし老人の耳は、その歌を、他の音から切り離して拾っていた。
雪のしずくと踊る姫君は
花の名を知らずに眠りぬ
老人は足を止めた。
その歌詞を、彼は知らなかった。
知らない歌だった。しかし歌われているものは、知っていた。誰のことを歌っているかを、知っていた。知ってしまった。街道沿いの宿の食堂で、自分とは何の関係もない誰かが、酒の勢いか、あるいは別の何かの勢いで、歌っていた。
春を知らずに眠りぬ…。とも聞こえた気がした。
消えたいくつかの言葉を頼りに老人は、その一節の中に、自分が知っている顔を浮かべた。探したくなかったが、探していた。見つかるはずがなかった。歌の中に顔はなかった。歌の中にあるのは「姫君」という輪郭だけだった。輪郭は、誰にでも当てはまる形をしていた。当てはまるからこそ、歌になる。当てはまるからこそ、誰かが口ずさむ。
老人の知っている顔は、歌の中にはなかった。
老人は歩き始めた。
足は墓所の方角を向いていた。そこに名のない石があった。積もっては払われ、払っては積もる雪の中に。
後ろで、歌はまだ続いていた。
続いているのか、風が運んでいるのか、もはや老人には判別がつかなかった。判別しようとも思わなかった。ただ、足を速めた。老人が足を速めることは珍しかった。珍しいことが、今夜は起きた。
トライコン亭の明かりが、遠くなった。
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*(第一章 了)*




