序章 石と雪と、名もなき者
名を持たない者が、名を持たない石の前に立っている。
これは、声を上げなかった者たちの、静かな物語です。
どうか、風の音に耳を澄ませながら、読んでいただけたら幸いです。
雪が降っていた。
降っているというより、積もっていた、という方が正確かもしれない。空はとうに灰色の一枚布になっており、どこから雪が落ちてくるのかも定かではなく、風の音も、鳥の声も、なかった。ただ世界全体が白く、静かだった。その静けさの片隅に、一人の老人がいた。
老人は石の前に立っていた。
石は大きくも小さくもなく、王家の墓所の外れに、まるで誰かが置き忘れたように存在していた。名は刻まれていなかった。日付も、紋章も、祈りの言葉の一節すらも。あるのはただ、長い年月が石の表面に刻んだ無数の細い傷だけであり、それは文字とも模様とも呼べないものだったが、老人はその傷の一つ一つを、今日も昨日も、おそらくは明日も、知っていた。
老人は動かなかった。
これは、寒さに凍えているのとは少し違う。老いた体が寒気に縮こまっているのとも、また違う。彼は、石と同じ速度で存在していた。石が動かないように、風を受けても揺れないように、老人もまたそこにあった。もし誰かが遠くから眺めたなら、墓所に新しい石が一つ増えたのだと思ったかもしれない。しかし近づけば気がついたはずだ。老人の鼻先から、白い息が、ごく僅かに、規則正しく立ち昇っていることに。
生きていた。
少なくとも、まだ。
風が変わった。
ほんの微かな変化だった。人間の感覚では気づかぬほどの、方角の僅かなずれ。しかし老人の目が、その瞬間、かすかに細くなった。遠くの街道の方角に、何かが動いている。馬ではない。人の足音でもない。荷車か。それとも——老人の意識はそこで静かに引き返した。関係のないことだった。ここは関係のない場所であり、彼は関係のない人間であり、世界はもうずいぶん長い間、彼に何も関係していなかった。
風が石を撫でた。
老人は、ふと、廊下の匂いを思った。
なぜ廊下の匂いを思ったのかは、自分でも分からなかった。石灰と古い絨毯と、どこか遠くの厨房から漂ってくる肉汁の香り。冬の日の、王宮の廊下。あの廊下は長かった。朝に端から端まで歩くと、窓の外の光が変わった。季節によっては、廊下の途中で朝が昼になった。老人は、そういう廊下を何年も歩いた。鎧の重さを、足の裏で確かめながら。
もうずいぶん昔のことに感じられる。
鎧は、もうない。
老人は今、くたびれた旅装束を着ている。色は何色だったのか、もはや判然としない褐色。剣は腰にある。それだけは変わらなかった。剣だけは、ある。老人が手放さなかったのか、剣が手放されることを拒んだのかは、老人自身にも分からなかった。
石の表面に、雪が積もり始めていた。
老人は、その雪を払わなかった。払うことが正しいのか、積もらせることが正しいのか、それとも正しさというものがこの石の前では何も意味を持たないのか——そういったことを、老人はもう考えないことにしていた。長い年月をかけて、考えないことを覚えた。考えないことは、ある種の技術だった。
遠くで、鴉が鳴いた。
老人の耳は、その鴉が三羽いることを、声の重なりから自然に聞き分けた。鴉たちは街道沿いの枯れ木に止まっており、そのうちの一羽が何かを見ている。荷車だろう、とさっきの判断を訂正した。荷車に積まれた何かを、鴉が待っている。
それだけのことだ。
老人はまた、石を見た。
石は何も言わなかった。石は何も言わないから、老人はここへ来る。人間は何かを言う。言葉で、あるいは目で、あるいは沈黙の質で、何かを老人に向けてくる。老人はそれが、長い年月をかけて、苦手になった。厳密には苦手という感覚すら薄れていて、ただ煩わしくなった。人間の発するものが、すべて。
石は煩わしくない。
名のない石は、特に。
——また会えるのかしら…。
声が、どこかから来た。
老人は動かなかった。動く必要はなかった。声は記憶の中から来たのだから、振り返っても何もない。記憶の声は、いつもこの石の前で聞こえた。最初の頃は、それが苦しかった。今は苦しくないかと問われれば、老人には答えようがなかった。苦しみという感覚が、長い年月をかけて、別の何かに変質していた。
痛みではない。
熱でもない。
強いて言うなら、重さだった。持ち続けている何かの、重さだった。
——また会えるのかしら。
老人は、あの時何と答えたのだったか。
いたずら気な宝石のように美しい目に吸い込まれそうになりながら、「御意のままに、」と答えたような気がした。いつもそう答えていたから、あの時も、おそらく、そう答えた。それが嘘だったかどうかを、あの時の自分は今ほど深くは考えなかった。考えられなかった。考えてしまえば、立っていられなかっただろう。騎士は立っていなければならなかった。廊下での鎧は、盾として立って在らなければならなかった。
雪が、また降り始めた。
老人は、空を見なかった。
空を見上げると、目に雪が入る。それが嫌だというわけでもないが、今は石を見ていたかった。石を見ているうちは、世界が狭くなる。狭い世界には、余分なものが入ってこない。新しい体制の旗も、変わった街の名前も、誰かが誰かを称える歌も。
そういうものが、老人には関係なかった。
もっとも、完全に関係ないとも言えなかった。風が変わると、老人の鼻は街の方角から流れてくるものを自然に読んだ。肉の腐る匂い。硝煙の残滓。人が大勢集まる場所の、体温と恐怖が混じった空気。老人の感覚は、意志とは無関係に世界を読んだ。
それが老人の、もう一つの本質だった。
人間のそれとは、少し違う本質。
老人はその本質を、長い年月、隠してきた。隠すことには慣れていた。隠すことが、習慣になっていた。習慣になってしまえば、苦ではなかった。ただ、廊下を歩くようなもの。朝から夜まで続く廊下を、毎日歩くようなもの。
石の表面の雪が、少し増えた。
老人はそれを、ただ見ていた。
名のない石と、名を捨てた老人と、積もっていく雪。
世界はそれだけで、今日も、十分だった。
——あなたは真面目すぎるわね。
また、声が来た。
老人は今度も、動かなかった。
ただ、剣の柄に触れた指が、ほんの僅かに、力を込めた。触れた、というより、確かめた。まだある、という確認。剣はあった。老人の手の下で、冷たく、静かに、あった。
それで十分だった。
しばらくの後、老人は踵を返した。
長居をするつもりはなかった。長居をするつもりはなかったが、毎日ここへ来た。来ないと決めたことはなかった。来ることを決めたこともなかった。ただ、足がここへ向いた。そういうことが、長い年月の中にはある。考えなくなったことのかわりに、考えなくても体がすることが、ある。
老人は、王家の墓所の外れを出た。
名のない石は、雪の中に、残った。
街道の方角で、鴉が一羽、飛び立った。
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*(冒頭、了)*
花は今日も、咲いている。
この物語を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
ラヴェルの《亡き王女のためのパヴァーヌ》に捧げます。




